困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

平賀源内は、教科書では掲載されない。
とらえどころのない人物であり、本当に「わかって」いた人なのか、それとも適当なホラを吹くような人物だったのか、どうにも評価が難しい面がある。したがって、教科書向きではない。

子どもが尋ねた時、わたしはこう答えた。

子「先生、平賀源内知ってる?」
「あー、エレキテルの人」
子「この人、教科書に載ってる?」
「あ、いや・・・・どうかな。教科書見てみて。たぶん、載ってないと思うわ」

子どもは、ふうん、と言って席に戻った。
見ると、机の上に、『まんが日本の歴史』があり、彼はそれを読んでるのだった。
まんがの方には、平賀源内は江戸中期の人物として紹介されているのだが、なぜか、教科書には載っていない。

しかし、考えてみると、評価はしづらくても、この人物が各界に与えた影響がはかりしれぬものがある。彼の存在があったからこそ、その後『蘭学』がほとばしるように咲きほこる時代が来た。

江戸時代に日本社会に与えたショックを電力にたとえたら、この人物が強烈なバッテリーとして作用し、どんどんとあふれる活力や刺激を与え続けた。おかげで、蘭学が盛んとなり、医学が進み、天文学が進み、いわゆる合理的な思考や科学的な目線が育った。その【科学の芽】が、この時代に日本社会に根付いたことの大きさは計り知れない。


実際にやるかやらないかはまだ迷っているけど、一応授業案を考えてみる。

【平賀源内・授業案】
※この授業は、人物として
①近松門左衛門(浄瑠璃・歌舞伎)
②安藤広重(浮世絵)
③伊能忠敬(地理・天文学)
④前野良沢(医学・語学)
⑤杉田玄白(医学)


以上を学習したうえで行う。

この5人が深めた世界はそれぞれ違います。
しかし、この5つの世界・すべてと関係の深い人がいました。
それが、平賀源内(ひらが・げんない)です。

<黒板の中央に、平賀源内の写真を印刷した紙を貼り付ける>
学習問題:平賀源内とこの5人とは、どんな結びつきがあるだろうか。

平賀源内は、香川県の足軽の子として生まれました。
若いころ、藩の立派な医者の弟子となり、薬草の研究をしました。
やがて<蘭学>に出会い、長崎の出島で勉強します。さらに、日本中を旅して歩くようになり、各地域で薬草や鉱石を見つけました。
珍しいものを見つけては人々に知らせようと、江戸に行き、今でいう博覧会のようなものを開きました。このような物産展ともいう催しは、今でも国際見本市や万博のようなイベントとして続いていますね。平賀源内が世界で最初に行ったこの物産展は評判を呼び、いつも大入りの人でにぎわったといいます。

さて、その物産展に来て、あれこれと源内に質問するような人がいました。
源内はそういう<科学の目をもった先駆者>ともいうべき人々と、しだいに交流を深めるようになります。その中に、杉田玄白がいました。
そんなわけで、杉田玄白は、オランダの書物を翻訳する前から、平賀源内と懇意でした。
また、玄白とともに「ターヘルアナトミア」の翻訳を行った前野良沢は、玄白の人脈の広さにはほとほと感心していたようです。

つまり、当時、蘭学を知ろうとする知識人たちは、みんなどんなささいな知識でも得ようと、蘭学にくわしい人を訪ね歩くのが、もっぱら時代の雰囲気として、あったのでした。

平賀源内は、前野良沢を知ると、
「こんなに真面目で繊細、ストイックな性格の人物はめずらしい」
と思ったようで、蘭学の本当の探求者というのは、前野良沢のような人物をさすのだろう、と思い、源内のもとを訪れる若い人に、「蘭学の先生として、前野良沢という人がいる」と紹介していたようです。たとえば、画家志望の鈴木春重(春信の弟子)にも、
「これから絵を描く人は、蘭学を学んだ方がいい」
と、前野良沢を紹介しています。
「新しい絵をかきたければ、蘭学を習いなさい。そのために信頼できる、蘭学の先生につきなさい」と。

また、玄白が「解体新書」を出版する際、本の最初の扉絵を描いたのは、平賀源内に蘭画の技法を習った秋田藩士でした。
平賀源内の海外文化の造詣の深さから、他にも多くの人が、彼の家を訪れたようです。
また、玄白より源内が先に亡くなるのですが、その葬式を執り行ったのは、杉田玄白でした。

次は、地理と天文学。伊能忠敬との関係です。
伊能忠敬の仮親にあたる平山季忠という人は、平賀源内の知り合いでした。この人は、源内の物産展に珍しい二枚貝や、鍾乳洞の石を出品しました。若いころの忠敬も、平賀源内の蘭学の博識ぶりに驚き、影響を受けたのです。実際に、忠敬は、平賀源内が発明した万歩計を使っています。

平賀源内を訪れた画家もいました。浮世絵をさらに緻密にした<錦絵(にしきえ)>で有名になった、鈴木晴信です。平賀源内と同じ町内に住んでいました。それまでの浮世絵は、1色刷りかせいぜい2色刷りでしたが、平賀源内が多色刷りのシステムを考案し、晴信に伝えたことがきっかけで、晴信の多色刷りの錦絵が飛ぶように売れたのです。安藤広重は、源内の死後に生まれていますが、当然影響を受けたわけですね。

この5人の中で、ただ一人、近松門左衛門だけは、平賀源内が生まれるよりも前に生きた人です。近松門左衛門が不動のものとした、浄瑠璃と歌舞伎。どちらもまずは大阪や京都で人気になったのですが、そのために役者も「京ことば」「大阪ことば」を使っていました。しかし、平賀源内は、江戸の言葉を使った浄瑠璃に変えて、脚本を書きました。それが大ヒット。江戸で催される歌舞伎は、源内の作品以後、「江戸言葉」を使って役者がしゃべるようになっていきます。
つまり、平賀源内は、

(浄瑠璃・歌舞伎)(浮世絵)(地理・天文学)(医学)どの世界にも大きな影響を及ぼした人なのでした。


以下は、平賀源内が国内ではじめて描いた西洋画。
平賀源内


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