給食がおいしい、ということ。
それが、もっとも基本かと思う。

「おいしかった」

という感覚が、子どもたちの脳裏の奥底、心の深奥に残っていくかどうか。

人生を肯定的に見るかどうか、
人生観の大事な部分を、教育することはできない。
教えて、なんとかなるものではない。
人生のことを、こう考えなさい、というので、子どもたちがみんな

「はい、わかりました」

といって、そうなるものではないからネ。


となると、もはや残された道は、「愛された実感と記憶」しか、たよるところがない。
いちばんは、メシだろうか、なあ・・・。

いつも腹いっぱい、うまい飯を食えたという実感。
手が込んでいてもいなくても、それはともかく、大人が忙しい中でも、食事だけはあたたかいものをと用意してくれたよなあ、とか。
たくさんよそってくれて、「おなかいっぱいになった?」と聞いてくれたっけ・・・とか。
これ、腹の底から実感があるのであれば、人生を肯定的にみなさい、とらえなさい、と100万回言われるより固い幸福が手に入るだろうと思う。


給食費がコストととらえられて、「削らなきゃ」と判断されることほど、つらいことはない。
たしかに民間企業であれば、もうけがなければならない。
しかし、コストを削ることに夢中になるあまり、子どもの大切な自尊感情を削っていいわけではない。給食を提供する民間企業は、多くが子どもたちへの愛情を元に、仕事を進めていらっしゃることだろう。しかし、それも「経営」が成り立っての話だ。厳しい経営事情のもとで、コストダウンを考えない経営者はいない。野菜の品質を落とし、コメの品質を落とし、コストの高い果物は減らし、量を減らし、冷蔵のコストを減らそうとするのが、当たり前だ。それが、常識なのだ。


子どもを育てる、ということに、コスト意識で向かわねばならないのが、つらい。
子どもに、食を用意する、食べさせる、ということについて、できるだけコストよりも先に、子どもたちの心からの満足を先に考えていきたいものだ。経営の厳しい今の時代、なによりもそれが難しいのだけれど・・・。

それにしても、なにを食べるかというのが、人生のなかでも、ひときわ大きな「こと」のように思える。あと一生のうちに、何度食事をするか分からない。
自分が自分に対して、

「なにをどれだけたべるか」

ということを、真剣に考えたくなる。
要らないものは、要らない。
自分にとって、「これを食べていたい」というものを、大事に、大事に、ひと口、ひと口、味わっていきたい。そして、その「食」に、できるかぎり、かかわっていたいと思う。

こういうことを考えるようになったのも、年をとった、ということだろうなあ。

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