困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

『朝廷って、なんだったっけ?』

・・・やっぱり、そうなんだよね。
歴史の授業が江戸時代まで進むと、この質問が出てくる。
征夷大将軍が幕府を開く、という話ばかりつづいたから、急に「朝廷」という言葉が教科書にでてきたとき、「それ、なんだっけ?」とわからなくなるのだ。
このところずっと、徳川幕府についていろいろ調べてきて、歴代の将軍ばかり話題にのぼっているからかナ?
京都には朝廷があって、天皇がいて、公家たちがいて・・・というの、忘れてる子が多い。

ひどい子になると、
「え?天皇って、江戸時代もいたの?」
と言って、驚いている。
「えええっ?ずっといるよ。今でもいるんだから」と返すと、
「あ、そう。とちゅうでいなくなっていたかと思った」
・・・それが教室に多数。

明治維新がとくにわかりにくい。
急に天皇が出てくる。
それに、国家、という考えが、ここで初めて出てくる感じがある。
小学生にとって、歴史が複雑になってくる境目が、明治維新だ。

国家とはなにか。
その根源的な問いを、ひそかに心中にしのばせて、学習をつづけている感じがある。
6年生なりに、「国家?・・・なんだろう?」と思っているところがある。

今の時代、国家、という言葉や概念が、かなり揺らいでいる、のではあるまいか。
「国民」とはだれのことをさすか、という問いが、改めて問われる時代になってきた。
新聞やニュースで今、さかんに報道されている。
たとえば香港の市民は、中国政府を信用していない。さらにいえば、香港政府のことも、信用していない。もはや、だれも信頼できず、国家自体に不信感を抱き始めているようだ。国家が自分とは切り離されて感じられるものに変質してしまっている。
どうやら、香港市民にとって、国家、という概念そのものが、だんだんと意味を失い始めている感じ。

韓国もそうだ。国民の声を代表するのが政府であるはずで、国民の総意で「国家」が成り立っているはず。ところが、どうもそうは見えてこない。おそらく、韓国の国民も、香港と同じだ。「自分が所属しているはずの国家そのものを、信頼できない」という苦しみを抱えている。

日本はどうか。
6年生に、わたしはこう教える。
「日本は国民主権の国。国民が一票を投じて国の政治を動かしていくことになっています」

ところが、現実はほとんど半数近くが投票をしない。
つまり、日本人も、すでに「国家」という言葉の意味、概念そのものに、むなしさを感じているらしい。自分が意見を出し、考えを伝え、ともに国家のありようを探ろうとする意欲を失っているのだ。その結果が、投票行動に証拠として現れている。

国家、国民、政府・・・分断された意識と意味、もはやうつろにしか響かなくなった概念。

今の私たちがほんとうに願っている、「国家」とは別の概念をつくった方がいいのかナ・・・。
実際、自分たちが「地球」というこの星に住みながら、必要としている概念って、なんだろうか。
「わずかな境界線をまもるために どれだけの人間が死んだことだろう」
 ↑ これって、水木しげるさんの言葉だったっけ・・・。

国家、国民、政府、これらに代わる、新しい言葉を発明しなきゃいけないのかもね。

朝廷
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