困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

研究主任となり、秋はもうブログを書く力が残されていませんでした。
ようやく大きな仕事が終わり、ほっとしています。

それにしても先生たちの、真摯な姿勢、学ぼうとする姿勢、本当に頭が下がる。

わたしが研究主任としてずっと口にしてきたのは、次の3つ。
◎具体的に
◎なんのために
◎バイアスをかけて見ていないか


子どもたちに、どんな指導をしたいのか、
具体的に、どんな方法で進めるのか、
「子ども」と簡単に言うけれど、その「子ども」とは具体的にどのような子か・・・
というような感じで、若い先生が、〇〇したい、というと、その都度、「それは、具体的にどういうことか」を探ろうとしてきた。

そこで感じたことがある。
人間は、具体的に話す、ということをしようとすると、ようやく事実に照らして話すようになる、ということだ。

事実に照らしていない話は、ほとんど意味がない。観念だけで話していることになる。
観念論では、教育はできない。なぜなら、相手の存在は事実であり、相手の存在は具体的であるからだ。
観念論とは、〇〇であるべき、〇〇というあり方であるべき、という教義(ドグマ)をもって論じること。
一見、これはふつうのことのように聞こえる。しかし、子どもが〇〇であるべきだから、子どもを〇〇とみなし、〇〇させる、ということは「教育」ではない。それは、〇(マル)を〇(マル)とみる科学的な合理的思考とはちがっている。実際には〇(マル)なのに、本来△(サンカク)であるべきなのだから・・・と言って、これは△(サンカク)なのだ、と言い切ってしまうような、いわば非合理的な態度である。「教育」ではなく「洗脳」であり、子どもを育てることにはならない。


授業を考えていくのは、楽しい。
そして、教員が子どもたちに対して、真摯に向き合い、相手の状態を見逃さず、子どもの様子をどう受け取っていくか、そのつど、思考していくことがエキサイティングだと感じる。

授業者の先生が最後に、「いやあ、本当に研究なんだなと・・・、勉強になりました」
と言ってくれた。

研究ってのが、イイよね。
どこまでも、夏休みの自由研究のようなもの。
ずっと、ずっと、はたしてどうか、と考え続けていくことができる。これは、やめられない。

koushi
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