困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

先日、怒っているときは頭脳がたいして働いておらず、暇~である、という記事を読んだ。
怒りは興味があるものに対して脳が理解できないサイン


怒りを正当化するとき、必死に頭を動かしているだろう、と思っているけれど、実は

「怒っている」

段階で、すでに脳は合理的に動くのをやめていて、ただ自分の気分を反復し、反芻(はんすう)しているだけだ。

怒っているときは、

◎こうしてほしかった

ということを、ただひたすら、脳の内部で何度もエンドレスで繰り返しているのだ。
実際の事実としては、こうしてほしかった、というその「願い」は実現されていない・・・。

(自分が思ったような現実でないと、こうなる以下)
・・・え?実現されてないの?こうしてほしかったのに!
・・・え?実現されてないの?こうしてほしかったのに!
・・・え?実現・・・(以下ループ)

脳内のニューロンは、願いを強く刻印する。
この「刻印作業」にも意味はあって、刻印すればするほど、それが順当になぞれた(達成できた)ときの達成感(ごほうび、報酬的興奮、ドーパミン分泌)が多くなる。
つまり、脳内にイメージを刻印し、その達成のあかつきに、大きな喜び(興奮)を得ようとするのだ。

ところが、現実的に、うまくいかないとき。
ひとは、願いが実現されないため、なんとかその『刻印作業』を打ち消そうとする。
その打ち消し作業は、めまいのような混乱を引き起こす。
高速道路で急ブレーキをかけるようなものだ。
急ブレーキは、タイヤと路面の間に大きな摩擦を生む。
その摩擦が、「怒り」というわけだ。

つまり、怒りは合理的思考に努めようとする脳の、正常な規制機能なのである。

混乱に気付くと、人間はアクセルを踏むのをやめ、暴走寸前だった脳の運転を、正常化させようとする。(はず!だった・・・)

ところが、人は言葉をもってしまった。



「怒り」の感情システムは、太古の昔、ヒトがまだ、言語のコミュニケーションをもたなかったころ、できあがったものだ。

神経系の発達で脳の正常化をうながすシステムであった「怒り」機構は、めまいと混乱によって、自身にそれを知らせる、人に正常性をもたらす(リカバリさせる)ためにそなわったものだ。

めまい、混乱、という信号を受け取った人類は、そこで脳への刻印作業を一時停止する。
そして、自分が客観的にどういう状況にいるのかを冷静に見極めようと立ち止まる。
1)事実をみよう、とする。

2)事実はどうか、と信号を受け取りなおす。

3)そこで、どうするかを考え、選択し、行動にうつす。

このように、あくまでも、「怒り」というのは、自分の脳の、合理的な防衛的規制機能だった。つまり、人を正常化させるために備わった、人類の「生きる術」であった。

ところが、現代人になればなるほど、その「生きる本能、もしくは生きる技術としての脳システム」を、きちんと使いこなせていないのだ。

なぜか。

言語をもったとたん、

「おれは◎◎をしてほしかったんだ!」

ということを、何度もくりかえし、相手に説明し、わかってもらおうと延々と繰り返すことができるようになってしまったからだ。

そのことは別に怒りとは無関係の行動にすぎないのだが、人はそこで混線(こんせん)し、「言語で自分の思いをだれかに説明することと、怒りの感情は、セットだ」と思い込んでしまった。

おまけに、◎◎をしてくれていない相手が、『わが怒り』の感情を引き起こしたのだ、と勘違いするようにまで堕落してしまった。

ちがうっ、つーの。(※ひとりごと)

怒りは、自分が自分のために発生させている。

相手は一切、無関係である。

「怒り」さえも、幸福への道。

人間は、最初から、一切が幸福に生きるように設定されている。

(怒りシステム研究道・初代家本「碇屋ポン太博士の怒りシステム解体新書」より)

hysteric_okoru_man
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