困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

読者の方から、たまにメッセージをいただくので、返信のようにして書いています。

担任の先生が、「ばかたれ」とわりと怖い調子でおっしゃるとのこと。
「そんな言葉を使わなくても注意はできると思う」と。

わたしも同感です。

教室が暗くなります。
言われた子は、その言葉で何を感じて、何を思うか、というのが気になりますね。
教師はいつも、「子どもがどう思うか、どう考えるか」を考えるのです。
授業も同じです。教師が何を教えたか、でなく、子どもが何を学んだか、です。
その方が重要で、大事なのです。


さて、「ばかたれ」に戻りましょう。
当事者でなくとも、周りで聞いている他の子どもの心にも、そういう言葉がじわじわと影響することは間違いない事でしょう。

強い言葉でいうべきではありません。
なぜなら、その言葉は内容がツタワラナイからです。
強い勢い、先生の怖い表情、恐ろしい調子、なにか嫌われている感じ、だけが伝わります。
なにもいいことはないのです。だれも得をしません。

児童が教師に向かって暴言を吐く、ということもあります。
児童が牛乳瓶を黒板に向かって投げつけるとか・・・。
教員を長く続けていると、本当か、ということも聞きます。

中学校の担任をしていた知り合いの先生は、
朝、学校へ通勤する途中に、ボーッとしながら運転をしてて、

「あのトラックが、横からぶつかってくれないかなあ。そうしたら大手を振って入院できる」

と思って、その後、そう思っている自分にびっくりした、と言って話していました。

それでも、「ばかたれ」と言うべきではありません。
おそらく、必要なのは、その子自身に対する理解の深さです。


もしかすると、そこまでのことではないのかもしれません。
文面からだけではちょっとわかりませんが。
若い先生で、ともかく学年主任の年配の先生に怒られるのがいやで、
「落ち着いている、よい学級」をつくりたいのかもしれません。
それで焦って、

強い調子でガツンと叱って言うことを聞かせる

ことにした、というだけのことかもしれません。


20代の若い先生なら、休み時間にはもう子どもといっしょになって、サッカーなり、おにごっこなり、校庭をかけまわって遊んでいるでしょうかネ?

子どもは、そういうことをしてほしいのかもしれません。
もっと先生とおしゃべりをしたいのかもしれないし。
子どもは、大人からしたらただそれだけのことでも、言わないこともあるのですな。

面と向かって

「先生、いっしょにサッカーして」

と言わないことがあります。

いっしょに遊んでほしいのに、遊んでくれない先生に対して、
ちょっと反抗して見せる、ということもあります。

あるいは、もっと楽しい授業にしてほしいのかもね。
子どもも、以前の先生と比べますから。

「以前の、〇〇先生の教え方のほうが、上手だな」

と、なんとなく感じているものです。
でも、今の先生が自分の担任なのだから、いい先生だと思いたいし、ぐっとこらえて、授業を受けているのです。先生の努力も感じていて、うちの先生だって頑張っているから、とちゃんと受け止めようとしているのですね。

「ばかたれー」が、本当に愛情深く、大好きな先生の放った絶妙な一言で、みんなでそのあと、大笑いするような空気の中で、たわいもなく響いた言葉であればいいがな、と思います。

oowarai_man
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