困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

『唐』という国は、広大な西アジア地域と接していました。
シルクロードがあったのも西アジアです。
ところが、西アジアは、唐とはまったく生活様式や文化のちがう人種がたくさん住んでいて・・・

『唐』との衝突が、しょっちゅうあったのです。

唐と諸外国

実は、このころから唐、という国の崩壊がはじまっていたのであります。
農民が疲弊し、税を納められなくなり、逃亡し、徴兵ができなくなり・・・
国の力が乏しくなり、国家の秩序が保たれなくなっていった。

一番の大きな引き金は、農民が逃散、税逃れ、兵役拒否をするようになり、まともな徴兵ができなくなったこと。唐は国家運営をするには当時、あまりに大きくなりすぎていました。

唐は基本、農業国家でした。土地を鍬と鍬でたがやしておりました。収穫物は税として納めることになっており、その量まで決まっていました。

ところが、西アジアの大半の土地には、先祖代々より、遊牧民が住んでおりました。
紀元前4世紀くらいから、今のモンゴル平原より黒海のあたりまで、いわゆるステップとよばれる気候の土地には、遊牧民が羊の群れと共に暮らしていたのです。

ステップ気候
↑ ステップ気候。表土が薄い。

中国が歴史を通じてずーっと悩んできたことに、遊牧民との関係があります。
遊牧民は基本、土地に固執しておりません。
そして、農業の民とは、犬猿の仲であります。
土地の表面の土を耕すことが、遊牧民を怒らせます。

遊牧民は、
「俺たちの羊が喰う、だいじな草を、どうしてそんな鉄でひっかきまわして、とっちまうだ!」
と怒り、しばしば襲来する。

農業の民は人口が増えるほどに必要な耕作面積を増やしたいわけですから、遊牧民の都合など聞かず、どんどんと畑を広げていきます。

これは殺し合いになるわけで・・・

それにしても恐ろしかったでしょう。
遊牧民が、いともやすやすと馬を乗りこなす様は・・・

唐の住民たちも、馬を飼っていました。
人々の生活の中に、馬は生きていたのです。
しかし、それは人間が乗るもの、ではなく、荷物をひかせたり、車をひかせたりするものでありました。

古くはローマ時代の戦車とよばれているものも、馬によってひかせていますね。

ローマ時代の洗車


唐の国の中にだって、馬の背中に直接乗れる人もいたでしょうが、みんながみんなできるわけではなかった。

ところが、遊牧民たちは、幼い頃から馬と一緒に暮らしております。
スーホの白い馬、でもそうでしたね。
みんな、馬の名手です。

野生の馬をのりこなすのには、たいへんな技術が要ります。
彼らにはその技術があり、どんどんと馬を手なずけていった。



だから、戦いになると、馬に乗ってやってくるわけ。

これは怖かったでしょう。
上をみると人間の上半身だけが見え、下を見ると馬の脚で走ってくる。
すごい勢いで!

それが弓をつがえて、異郷の言葉を発しながら、おたけびをあげて襲い掛かってくるんですよ!

それも、大量の馬の数、数、数!!!

電光のごとくに襲い掛かってきて、あっという間に立ち去っていく。

対する唐の軍勢にも、馬はいたでしょうが、乗りこなせる軍人の数がちがう。
また、馬の数がちがう。
兵器の絶対量が、違うわけです。

Hunnen


これにはまったく、農業民たちはかなわなかったでしょう。
遊牧民たちは、にっくき農耕民族をぎゃふんといわせ、意気揚々と去っていくのでありました。

農業の民は、納得がいきませんよね。
「どうして、土地を耕すのがいかんのだ?」

ところが、耕すと、もうそこには草が生えないのが、ステップ、という土地なのです。
土が、表土としてはもう、ほんの薄皮のようにしか堆積しておらず、あとは固い岩盤が広がっているのです。だから、一度草を取り除き、表土を掘り起こしてしまうと、あとに戻らないのです。(北京郊外の土地が現在荒れ地になっておりますが、黄砂の原因にもなっていますネ)

原因は強烈な太陽の照り付けと、大陸を吹き渡るステップの強風です。

フライパンの上に小麦を置いて、熱すると、焦げていきますよね。それに近いイメージです。
硬い岩盤の上の薄い表土を、ドライヤーの熱風をあびせながらじりじりと太陽光であぶるようなもの。草を引きはがし、取り除いてしまったら、土だってからっからに乾いてしまいます。そして、いったん表土をはがしてしまうと、そこからどんどんと風化してしまうのです。

ほんの少しの表土が、ほんのちょっとの湿り気で、ようやっと長い年月をかけて堆積し、小さな植物を生やしているだけの土地なんです。ステップ、というのは・・・。


だから、そこを鉄のへら(鍬くわ)でもって、削られてごらんなさい。

「お前ら、おれたちを殺す気かッ!!」

と怒られるわけですね。遊牧民たちから。

kibamongo

唐は、その衝突を武力で抑えるためにどうしても、遠方に大量の防人(さきもり)を赴任させなければならないが、だんだんと国力が衰えるとともに、徴兵ができなくなっていきました。
徴兵ができず、結局、お金で兵を雇うことにした。
これが大きな失敗だったんですが・・・

お金で兵隊の募集に応じるような人たちというのは、まあ、ふつうの堅気の人たちではなく、農家でほそぼそと暮らしていこう、という発想を持たない人たちでありました。

お金で兵隊を雇ったら⇒そいつらがごろつきの不良で⇒国家に反乱し⇒それが抑えられなくなって⇒崩壊

結局、唐はだんだんとゆっくりと、崩壊していく国だと認識されていたわけですね。内部の人にも。

日本は遣唐使を894年に停止します。
崩壊していく国から学ぶことは何もないわけで。
渡来人が、崩壊寸前の国から日本に逃れて来る気になるのも、無理ない話なのでした。

ところで、遣唐使は実は、894年に突然打ち切られたわけではありません。
もうかなり長いこと、派遣されておりませんでした。

7世紀後半までに遣唐使は7回ありました。
第1回が、犬上御田鍬によるもので630年。第7回が669年です。

とくに第2回以降は、

653年
654年
659年
665年
667年

と、数年間隔で“頻繁”に往来しているといえます。

ところが第8回以降は、十数年に1回くらい。
任命されてものらりくらりと行かなかった(行きたくなかった)のが3回、遭難してしまったものが2回ありました。

759年に派遣された後、779年まで派遣されていないので、この間は20年間空白です。

そしてその後、838年まではなんと60年間も空白です。

で、838年の次が894年で、このとき任命されたのが菅原道真だったのです。
そこまで、なんと56年間、遣唐使はありませんでした。

つまり、実際に唐まで出かけたのは、

759年
779年
838年
の3回ですね。

894年に菅原道真が「遣唐使」に任命されますが、当時の菅原道真が、

「えっと、遣唐使ってどんな感じで仕事すればいいのかな」

と考え、

「前任者の仕事をチェックしようっと」

と思っても、すでに前任者は高齢で死んでいますし、じゃあその前は?と、前任者のさらに一つ前の人を探してみても、その人は779年に出かけた人ですから、894年から数えると、115年前に出かけた人、ということになります。

で、この頃の「唐」というのは、すでに政治もろくに為されず、人民は税を無視し、徴兵にも応じず、という状態であったようで・・・。

こうしてみると、菅原道真が「遣唐使やめよう」というのも、無理はない、というか、逆になぜ彼が任命されたのか、不思議にさえ思えてきます。

(道真のやつめ、唐に行って難破して死んでしまえ、という影の圧力があったという、まことしやかな黒い噂も・・・)


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