自分の人生を主体的に生きている。
そう、自覚している人は多いのではないか、と思う。

もちろん、わたしは自分の人生を主体的に生きている、と。

たしかに鎖でつながれているわけでもなく、自分で日々の計画をたて、好きなスーパーで買い物したり、今日は大根を買おう、というように買うものを選んでいられるのは、われわれ大人がだれかの奴隷ではないからであります。

ところが、

「心理的な背景をもとに、無自覚に、隠された動機で人間は活動してしまう」

ということが、ありますね。

言い換えると、

「ひとは誰でも、隠された、というか、無自覚的に、無意識的に、『意図しない動機』を持ってしまう

ということです。

背後から、支配する心理がある。

これは、『主体的』の、正反対に位置するもの。
もっとも、ひとを『主体的な生き方』から遠ざけるものでしょう。



本当に、そうしたくて、そうしている場合と、
そうでない場合がある。

われわれ教師は、そこに敏感でなくてはならない。

がんばって勉強している。
そのこと自体はとても素晴らしい。
しかし、「人から認められなければ」「良い評価を得なくては」というくらい、苦しくなるほどの動機で勉強しているとしたら、どこかに不健康さがあるのでしょう。

もっとひどくなると、「他人を見返してやらねば」という動機で、がんばることだってある。
子どもがそこまで思うだろうか、とひとは思うだろうが、それが実際、あるのである。

そして、他の子よりも自分の点数や成績が良かったことが分かると、だんだんに他の子を見下すような言動が出てくる。
わたしがそういうとき、まっさきに感じるのは、

「子どもらしさの欠如」

である。

その子らしさの欠如、と言い換えてもいい。

だれかを見下さないと生きていかれない。逆に言えば、ありのままの自分ではいられない、ということだろう。これは苦しい。どこかでツケがまわってくることになる。

「がんばっている」の背後にかくされた、自分をありのままではいられなくしている動機。
これが顕在化していればまだしも、隠されているところに、問題の難しさがある。
総じてこれが、『主体的』をむずかしくさせる原因であろう。

また、逆に言えば、

これほど「主体的」がむずかしいからこそ、文科省は何度も何度も、繰り返し繰り返し、そのことを実現したくて、実現したくて、実現したくてたまらないのである。

そして、まだ叫び続けていても、どれだけ叫んでも、なかなか実現できていかないのだ。

(本当は主体的な子が多く、どの子も素直に伸びているのが現実なんだが、社会の仕組みや常識がマッチしていないために、主体的であることを抑えられているか、もしくはすでに主体性があるのにも関わらず、それが認められていないのかもしれないーだって内面が大事、主体性が大事、と一方で言いながら、外見だけを評価してずいぶんほめそやす文化が学校教育にはいまだあるのだから)

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