手段と目的を取り違える、という人間の病気は、やはりなかなか治りにくいもののようだ。
この人類が共通して罹る病(やまい)については、心理学的な探求もされていて、
「なんでこうも、みんなが陥るのか」
「世の中でも認識されているのに、なぜ未だに広く行われるのか」
ということが、心理学の世界でもアカデミックに解明されようとしている。
それにも関わらず、やはり全人類が共通して落ち込んでしまうのが、この心理的な「罠」であります。

勤務校では、保護者とのつながりを大事にするために、
「学級通信」
をたくさん出すように、という指令が校長から出ている。


号令がかかると、どうなるか。
すごいです。ボクシングのリングで、ゴングが鳴ったような雰囲気。
真面目に子ども時代を過ごし、そのまま真面目に大学まで進み、けっこうな成績で単位をきちんと取得して採用試験にまで合格するような先生たちでありますから、これはもう、『一斉に』取り組み始めます。元来、先生たちは、「まっすぐ」なのです。やれ、と言われたら、やる。とくに、【保護者との繋がりを持つため】などと、その「意義」を説明されようものなら、ますます鼻息荒く取り組みます。

いや、わたしは学級通信は出すと良いと思いますよ。反対しているわけではない。
ただ、こうした姿を、客観的にいろいろと見ておいた方がよいと思うので。

で、夕方の職員室には、カタカタとキーボードを打つ姿がずらりと並び、壮観ですね。
校長教頭など管理職の目の前には、さまざまな学級通信の原稿が積まれてゆく。
管理職が目を通して許可が出ると、今度はいっせいに印刷に走る。
印刷機の前には列ができます。

やりはじめるとすごいですから。
で、文章が苦手で、なかなか筆の進まない先生など、写真で紙面をうめるためにカメラで児童の作品をパシャパシャ撮っている。いいアイデアですね。子どものノートをスキャンする先生もいて、ノートの指導などを紙面で行っている。みなさん、頭がいいんです。

ところがそういう、忙しい雰囲気のときに、保護者から電話がかかってくると、みなさんだいたいは、

あーー

という困った顔をされて、面倒だな、という雰囲気で、電話に出ることになる。
だって、今、印刷機まわしている最中ですもの。印刷、終わらせたいんですね。

で、結局、早めに電話の要件を終わらせて、印刷機にもどってくる。
電話で話す時間を極力減らし、保護者とは話さずに印刷に精を出すわけで。
つまりは、保護者の言いたいことを聞くのではなく、自分が出したい学級通信を出すことに集中していくようになる。

これは、ある種の「集団ヒステリック」のような状態ではないか、と思う。

売り上げを上げたい営業マンがいて、売り上げを上げるために訪問件数を増やせ、と上司に命令される。すると、その営業マンは訪問して会う顧客にかける時間を減らし、件数だけを増やすようになる。さらにますます件数を増やそうとし、スマホを見、電車の乗り継ぎをスムーズにさせるためのナビソフトを駆使していかに短時間で都内の顧客の会社をまわるかに血道をあげるようになる。

結果として、一日あたりの訪問件数は増える。しかし、短時間で切り上げてしまうために顧客の要望をきちんと汲み取ることができずに売り上げも伸びないということだってあり得るわけで。契約件数が以前より下がる可能性も・・・。まさに本末転倒ですね。

自分は学校にいる教職員であるが、この『本末転倒』をやっていないかが、すごく気になる。
学校には「学力調査」というものさしがあるので、これを上げることにまずは血道をあげたらよいのだろう。しかし、なにか手段と目的を取り違えている・・・ということになりはしないか、一抹の不安が・・・。

学校にある、行動の基準となる『ものさし』。
価値基準。
これがなんであるかが、大事だろう。

いったん、その「ものさし」が決まると、成績を上げるためにありとあらゆる努力をするのが教師という生き物。まじめな先生方は全員、スクラムを組んで全エネルギーを注ぐ。

では、いったい、なにが目的なのか。これが大事。

「価値」に重きを置くのは、どうやら『ちがう』ようだ。
「価値」というのは、ひとが今思っているほどには、重要ではない。
価値がある、とか、価値が無い、という言い回しそのものが、すでに勘違いなのだろう。

価値、からの、脱却。

これが、21世紀、その先のステージだ。

スクラム