春、終業式まであとわずか。

なんとなくしっとりした雰囲気で、給食をたべながら、
ああ、そういえば、食器を投げる子が、いなくなったなあ、と気づいた。

食べ終わったあと、食器を片付ける。
食器の入ったカゴというのがあって、かなり大きい。
そこに、全員分の食器がつみかさなる。

春、このクラスは、このカゴが、とっても汚かった。
食べ終わったあと、まだおかずのこびりついたような皿が、何枚も、このカゴの中に
ぞんざいに置かれた。
悪い時は、「投げ捨てるようにして、入れられた」感じがあった。

おもしろがって、放り投げるようにして入れる子もいた。
それも、何人も。
給食台の上が、飛び散ったおかずで、汚れ放題に汚れていた。

4月に担任を持ったとき、

「この状況を変えるのがゴールではない」と思ってスタートした。
形を変えるのは、1日で可能だ。
大声で怒鳴りつけるか、
厳しくチェックして事細かに注意するか、
名簿をもってきて、一人ずつ確認するか、
教師ならどんな手立てもとれる。


食事が、ていねいにできるようにしたい。
いつの間にか、そうなるように、この場がしあわせな空気で包まれるように。
「高級レストランのように」という言葉を子どもに向けて発しなくても、自然とそんな空気になるように・・・

こころが満たされて、満足して、安心して、友だちが好きで、ここにいることが幸せで、みんなとこうやって食事ができることが好きで、楽しくて・・・

そんな食事ができるなら、お皿を投げる気にもならず、おかずがとびちることも分かり、これをつくってくださる方、調理してくださる方の思いにも、どこかで通じていく気持ちをもてていることだろう。

つまり、こころがこまやかになる、ということだ。
それは、びくびくすることではない。
それは、こころがしめつけられ、ささいなことが気になる、というありようではない。
『気になる』、のではない心の状態。



「こうじゃなきゃ、なんか気になっちゃう」の反対が、いいなあ。
「どんな状況でもかまわないけど、なんかこうしたくなって、こうした」がいいなあ。


1年間を通してみて、この子たちの良さが見えてきたかな、というとき。
いつの間にか、子どもたちはみんな、落ち着いて食事をしている。

これは、担任が、この子たちの良さが見えるようになったから、
そういう目をもててきたから、
ようやく、この子たちは、本当の姿をみせるようになってきたのだろう。

大人が子どもを誤解しているから、食器を投げるのだ。
この世に、食器を投げる子、は、いない。

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