道徳の時間に、

「正義ってなんだ?」

と、しっかり考えるようになる。

桃太郎の側から見るだけではない、鬼の立場も事情も見てやろう、というのが道徳であり、決して一方的な価値観だけで決めつけてみて相手を断罪しようとしないのが道徳です。

桃太郎の側から見ると、おそろしい形相でわけの分からない言葉をしゃべり、山から下りて来て畑の野菜を勝手に食う者が鬼に見えたようで、その鬼を殺すのが、いかにも正義に聞こえるが、

鬼からすると、故郷の戦火から逃れるために海を渡り、別の地方に来て、追っ手を怖れて山へこもっていただけかもしれない。

道徳をやっていくと、子どもたちに「複眼思考」や、「俯瞰思考」が身につく。

物事を、ただ単純なイメージで片づけるのではない思考が身についていく。

悪い奴をやっつければ、残りの清い者だけが残り、その後に、かならず平和が訪れるはずだ、というのが桃太郎サイドの見方。

しかし、その思考法では、悪い奴というのは、あとからあとから、湧いてくるのでありますネ。

「悪い奴を排除すれば、清い者だけが残るはず」

という論理で、行動した後、おそらくその余韻が残っているわずかな間だけ、安心できる心理・思考法なのでしょう。

半年もすれば、

「またどこかに悪い奴がいるかもしれない」

と疑心暗鬼になり、

「悪い奴はどこだ」

となり、

「悪い奴を削除しないと不安」

になり、

「悪い奴がどこかに隠れているかもしれない」

と怯えて暮らすようになり、

「あいつは悪い奴だ!」

という合図を待つようになる。



ところが、道徳をやっていくことで、不安が解消されるのですな。

鬼を理解する、鬼の立場に身を置く、ということを学ぶ。

学んだ者だけが、「鬼と和解できる道筋」を探すようになり、思わぬ副産物を得る。

それは、「鬼を排除しない、という思考の方が、安心感が大きい」という気付き、でありましょう。

そうなると、今まで、血眼になって鬼を探し、惨殺すべき!と叫んでいた自分を、客観視できるのです。

つまり、道徳が学校に根付くようになると、鬼は消えていくのです。

鬼は姿を変えていないのに、周囲が、鬼を理解するため、ツノや牙をみても、「怖い」と思わなくても済むようになるであります。

したがって、道徳が増えると、悪い子=「鬼」が減っていくことになるのでしょう。

〇〇が怖い!
〇〇は恐ろしい!
〇〇をやっつけろ!

やがて、ヘイトスピーチは、学校教育の道徳によって、減っていく道理になるのでしょうか?

つまり、ヘイトの心理を徹底的に洗って、その「偏り」を自覚するところまで、しっかりと学習する、ということでしょう。