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すぐ前の記事の

「おまじないはフィクションだ」

という文章に、読者からの反応があったため、追記しておきたい。

おまじないは、悪いものではない。
また、その著者を否定するものでもなく、楽しみを奪うつもりもない。
おまじないが効く!と思うことで、プラシーボ効果さえあると思うし、実利も生まれるかもしれないからだ。

しかし、やはり弊害は大きい。
江戸時代から明治にかけて、東大生であった井上円了は、人々がなぜフィクションを信じるのか、その謎を解明するために生涯をかけている。井上が迷信を世の中から一掃するために取り組んだ原点は、人の命がむだに死んでいくことからだった。

つまり、医学的に患者の身体を温めなければならないはずであるのに(当時でさえそのようなことはわかったはずであるのに)、近所の奇石に神仏が宿り、著しく感応している、という土地の伝説を信じて、寒い夜に火を焚き、無理に患者を連れ出して結果、衰弱死させてしまうなど。

なぜ人はフィクションを信じるのか、どうして合理思想が普遍化しないのか。
そのことの解明に、前記事の山片蟠桃も、井上円了も、挑戦していたのであろう。

繰り返すが、おまじないそのものが悪いわけでは、ない。しかし、うかつにもやはり事実実際から目をそらさせてしまう弊害は、いつまでもつきまとう。

理科の実験で、わたしが静電気を起こして見せると、
あまりにもAくんの髪の毛が、劇的に逆立つので、子どもたちはいっせいに驚く。

そのとき、わたしがもしも仮に、天に祈るしぐさをしてみせたら、どうだろう。
もしかするとクラスの何人かは、

「静電気が起きたのは、先生が天に向かってなにか言ったからだ」

と思う子も出てくるだろう。

『劇的な効果』を利用して、人になにかを「確信させる」ということは、たやすい。エレキテルで万病が治る、という奇説を流布して、金儲けをした明治の人は、そのことを利用したわけだ。実際には、エレキテルが単発作用したわけでなく、治る治らないは、その患者を取り巻く、数えきれないほど多くの環境要因がさまざまに合科、作用して為されたものであったでしょうに。

小学校は、方法によっては、子どもにまちがったフィクションを信じさせることができる場である。われわれ教員は、井上円了と同じだ。フィクションによって現実、事実実際を見ることができなくなる弊害を、科学の力でとりのぞかねばならない。われわれは、迷信バスター、なのだ。

mig

上は、日本をつくってるところ。(神が)