わたしは、自分のことを、一人の普通の日本人だと思っている。
「いま日本が危ない」ということを聞くと、すぐに「日本と、そこに住む人たちを守りたい」とも思う。
日本、というのは国家である。
国家でもっとも大切なのは、人である。
その個人を、とことん大事にするために設けた組織が国家である。
人は、いろいろ、である。
その多様さを、その人の奥深い<自身の人格そのもの>を、その人の身体を、とことん、大事に考える、のである。
先日もまた、人を大事にする、というのはどんなことか、と考えながら神社へ行った。
近所にありましてね。
休日の、散歩コースにしています。
まずは正式に、一の鳥居をくぐり、すぐの参道の脇にある手水舎で身を清めようと思いまして、
「神社で手を洗うと、なんとなく気持ちがすっきりして、なんだかまるで、自分の汚れた心が洗われたようになる」
と嫁様に言うと、
「洗心って、書いてあるから、そんなふうに暗示を受けたんじゃない?」
と言う。
断じて、そんなことはあるまい。大和民族の男児たるわたしが、そんなに安易に洗脳されたり、暗示を受けたりするわけがないではないか。
境内へ行って、木で建てられた建物を見たり、石の彫刻をみたり、陽の当たる広々とした地面をみたり、落ち葉を見たり、いろいろとのんびり、する。
すると、やはり、当然のことながら、生身の人間の考えることなんて、たかがしれてる、と思うようになりますワネ。
これはおそらく、日本古来の神が、わたしに向かって何らかの働きかけをしてくださっているのでは、と思うくらい、明晰なメッセージだ。
その神社の片隅には、「〇〇一等兵の碑」というようなものがある。おそらく戦時中に建てられたのだろう。戦死された兵隊さんの、ご家族が建てたのではないかと思う。
そういう、英霊がわたしに向かって、
「きみ、浅い、浅い」
と、教えてくださっているような気もする。
「その子にとって、どうか、でね。大人にとって、どうかではなく。その子自身が、気持ちよく育つように、な」
と、どこかから、聞こえてくる。
ころんだから、立ちなさい、ではダメよ。
友達を叩いたから、やめなさい、だけではダメ。
分からないから、教えよう、ではない。
外に向いているから、正面を向かせる、ではない。
ああだから、こう、ではない。
ころんだように見えたけど、あなたのいう「ころんだ」ではない。
叩いたように見えたけど、大人のいう「たたいた」ではない。
分からないように見えたけど、あなたのいう「分からない」ではない。
外に向いているように見えるけど、大人のいう「外」ではない。
ああ、というように見えるけど、あなたの「ああ」ではない。
A、のように見えるけれども、大人が思うAではない。
だから、日本を守る、の前に、やることがある。
「あの国のせいで」という前に、そういいたくなる自分なのはなぜか?と
知ること、やることがある。
北朝鮮の将軍のせい、若い世代のせい、悪い奴らのせい。
〇〇のせい、としたくなる、言いたくなる。
そのことが良い悪いと反省する前に、なぜ、そうしたくなる心理なのかを。
「誰かのせい、としたせいで、オレぁ、死んだのやぜ」
そう、英霊が教えてくださっているわけだ。
ご先祖様たちが、間違えるな、と諭してくださっているのだよね。
ありがたい。
わたしはそうつぶやいて、立ち上がる。
わたしはふたたび、「洗心」の手水をつかって、身を清めたいと思う。
小さな、小さな、わたしが、広い、広い、広い道のほんの片隅で、『道が狭い!けしからん』と叫んでいる滑稽さ。
「守りたくなればなるほど、間違った道しか見えなくなってるということ」
これを、「国防教員の心得」といおう。
「いま日本が危ない」ということを聞くと、すぐに「日本と、そこに住む人たちを守りたい」とも思う。
日本、というのは国家である。
国家でもっとも大切なのは、人である。
その個人を、とことん大事にするために設けた組織が国家である。
人は、いろいろ、である。
その多様さを、その人の奥深い<自身の人格そのもの>を、その人の身体を、とことん、大事に考える、のである。
先日もまた、人を大事にする、というのはどんなことか、と考えながら神社へ行った。
近所にありましてね。
休日の、散歩コースにしています。
まずは正式に、一の鳥居をくぐり、すぐの参道の脇にある手水舎で身を清めようと思いまして、
「神社で手を洗うと、なんとなく気持ちがすっきりして、なんだかまるで、自分の汚れた心が洗われたようになる」
と嫁様に言うと、
「洗心って、書いてあるから、そんなふうに暗示を受けたんじゃない?」
と言う。
断じて、そんなことはあるまい。大和民族の男児たるわたしが、そんなに安易に洗脳されたり、暗示を受けたりするわけがないではないか。
境内へ行って、木で建てられた建物を見たり、石の彫刻をみたり、陽の当たる広々とした地面をみたり、落ち葉を見たり、いろいろとのんびり、する。
すると、やはり、当然のことながら、生身の人間の考えることなんて、たかがしれてる、と思うようになりますワネ。
これはおそらく、日本古来の神が、わたしに向かって何らかの働きかけをしてくださっているのでは、と思うくらい、明晰なメッセージだ。
その神社の片隅には、「〇〇一等兵の碑」というようなものがある。おそらく戦時中に建てられたのだろう。戦死された兵隊さんの、ご家族が建てたのではないかと思う。
そういう、英霊がわたしに向かって、
「きみ、浅い、浅い」
と、教えてくださっているような気もする。
「その子にとって、どうか、でね。大人にとって、どうかではなく。その子自身が、気持ちよく育つように、な」
と、どこかから、聞こえてくる。
ころんだから、立ちなさい、ではダメよ。
友達を叩いたから、やめなさい、だけではダメ。
分からないから、教えよう、ではない。
外に向いているから、正面を向かせる、ではない。
ああだから、こう、ではない。
ころんだように見えたけど、あなたのいう「ころんだ」ではない。
叩いたように見えたけど、大人のいう「たたいた」ではない。
分からないように見えたけど、あなたのいう「分からない」ではない。
外に向いているように見えるけど、大人のいう「外」ではない。
ああ、というように見えるけど、あなたの「ああ」ではない。
A、のように見えるけれども、大人が思うAではない。
だから、日本を守る、の前に、やることがある。
「あの国のせいで」という前に、そういいたくなる自分なのはなぜか?と
知ること、やることがある。
北朝鮮の将軍のせい、若い世代のせい、悪い奴らのせい。
〇〇のせい、としたくなる、言いたくなる。
そのことが良い悪いと反省する前に、なぜ、そうしたくなる心理なのかを。
「誰かのせい、としたせいで、オレぁ、死んだのやぜ」
そう、英霊が教えてくださっているわけだ。
ご先祖様たちが、間違えるな、と諭してくださっているのだよね。
ありがたい。
わたしはそうつぶやいて、立ち上がる。
わたしはふたたび、「洗心」の手水をつかって、身を清めたいと思う。
小さな、小さな、わたしが、広い、広い、広い道のほんの片隅で、『道が狭い!けしからん』と叫んでいる滑稽さ。
「守りたくなればなるほど、間違った道しか見えなくなってるということ」
これを、「国防教員の心得」といおう。