元エンジニア・新間先生の自問自答ブログ

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

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そろそろ文科省も本気になってきて、これまでの旧態依然とした道徳教育を根底から改革し、真に国を憂える子に育てようとしはじめた。

生命を大切にする心や他人を思いやる心,善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることは,とても重要。
(文科省のページより)

国を愛する、ということは、そこに暮らす人を大切にする、ということである。
大切にする、とは、どこまでも暴力ではなく、非暴力で、ということである。

暴力で命は大切にできないし、
他人を思いやるのに、もっとも邪魔なものは、暴力であろう。
また、善悪の判断に際し、いちばん大事なのは冷静さと知的さゆえの「非暴力」である。
知性、人の道から外れ、暴力に依存してしまう姿は、もっとも規範意識からずれているといえよう。

だから、道徳としてもっとも肝心なのは、「暴力」をどう考えるか、ということでありましょう。

なにをもってしても、暴力の問題から離れることができない、と腹をくくるとすれば、これはもう、「暴力」ということをどう考えるか、が、ずばり道徳教育そのものである、と言えるのではないだろうか。

つまり、道徳教育とは、その内容は100%ずばりそのまま、『非暴力教育』のことである、といえましょう。

すると、ですね。

子どもに、「非暴力」という字を見せて、

「読める?」

という。

子どもは、「ひぼうりょく」

と読む。

「はい、今日はこれがお題だよ。10秒間、考えてみましょう。はい、10、9、8・・・」

子どもからは、困惑した声が出てくるわけね。

「当たり前」
「保育園で習った」
「痛いことはしてはいかん」
「取り返しのつかないことになるから、頭が悪い人のやること」
「暴力は結局、だれかがくるしいから、自分も苦しむ」


わたしが驚いて、すごいねえ、こうまですらすら意見が出てくると思わんかった、と言うと、

「こんなの、当たり前すぎて・・・」
「保育園でずっと話し合ってきたよ」

つまり、道徳というのは、すでに保育園で習得したものである、ということになる。

保育園で習うことが、大人になると忘れてしまうために、復習をしつづけていかねばならない、というのが、道徳教育の本質なのでありましょう。となると、教室でわたしが道徳の時間に教師面をしていることが、こっけいに思われますナ。だって、相手は優秀な小学生ですよ。わたしは非常識極まりない、大人の中のひとり、ということですからネ。

世界こども会議、というのが国連でありまして・・・
そこで何十年か前、国際児童年、というのがあって・・・
各国の児童代表が話し合って出てきたのが、
「少なくとも、戦争をやろうと言い出したのは大人であって、子どもではない」
という、痛烈なメッセージ。

子どもよりも大人の方です。
「自分は分かっている」と言いたがるのは。
少なくとも教師は、「ひぼうりょくが分かっている。できる」とは言ってはいけない。分かった、と、その課題を終えてしまったとたん、向上しなくなり、下落が始まる。そんな姿を、教室で子どもたちに見せてはいけない。

大気汚染でも記念写真
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