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タイトルを変えて、1年が経つ。
ブログの前タイトルは、「叱らないでも、いいですか」
であった。
叱るが前提の学校現場。
当時はまだ新人だったわたし。
その新米教師が、言うことを聞かない子どもを、叱らないでいいはずがない。
現場の常識にそえば、だれしもそう判断するであろう。
ところが、叱らないでも、ちっとも困らない。
そこで、遠慮しながら、こういうタイトルをつけていた。
遠慮がちに、つぶやくようにブログを書いていたつもり・・・だったが・・・
実は、ブログを始めてみると、いろんな方からメールやメッセージが届くようになった。
「叱らなくてもいいのですか?叱ってはいけないのですか?」
というものが、多かったかな。
現場の先生や、若い教師からだった。
インターネット、という場所だから、
「まさかこんな個人のブログ、だれも読みゃしないだろう」
という予想は外れたわけだ。
また、関連して、
という、なんだかすごい質問まで来たことを思いだす。
こりゃ、たいへんなタイトルなんだな、と改めて感じたものであった。
腹を立てるのは別に相手のせいではないから勝手に立てるのはいいだろうし、
悲しみ、という感情も相手のせいではないし、特段悪いものではないから、
悲しむときは大いに悲しみという感情にひたればよいと思う。
腹を立てることで味わう切なさが、甘酸っぱければ甘酸っぱいほど、自分が抗(あらが)っていることの自覚のようなものが、静かにやさしく、私自身を包み込んでくれることが分かる。腹を立てたことで、抗う自己世界の隙間から(偶然にも)ちょっぴり見えてくる安堵の世界、心底安心の世界があるわけで・・・。
それが、タイトルの言葉だけに反応し、
「腹を立てるのはダメなんすか?」となるのが不思議。
なぜ、そんな話になってしまうのか、ずいぶんとややこしい回路になっているのがみてとれる。
今、
というタイトルに変えたら、そういうメールはめっきり、減った。
一度だけ、中国地方(山陰)のお寺の若い坊さんからメッセージが届いたが、それはむしろ「タイトル、おもろいですね」というだけの簡単な感想だったネ。
とまれ、今年も叱らない、困らない、で一年を過ごしていきそうだ。

タイトルを変えて、1年が経つ。
ブログの前タイトルは、「叱らないでも、いいですか」
であった。
叱るが前提の学校現場。
当時はまだ新人だったわたし。
その新米教師が、言うことを聞かない子どもを、叱らないでいいはずがない。
現場の常識にそえば、だれしもそう判断するであろう。
ところが、叱らないでも、ちっとも困らない。
そこで、遠慮しながら、こういうタイトルをつけていた。
遠慮がちに、つぶやくようにブログを書いていたつもり・・・だったが・・・
実は、ブログを始めてみると、いろんな方からメールやメッセージが届くようになった。
「叱らなくてもいいのですか?叱ってはいけないのですか?」
というものが、多かったかな。
現場の先生や、若い教師からだった。
インターネット、という場所だから、
「まさかこんな個人のブログ、だれも読みゃしないだろう」
という予想は外れたわけだ。
また、関連して、
〇腹を立ててはいけないのですか。
〇悲しんでもいけないのですか。
〇マイナスの感情が湧き上がるのはダメなのですか。
という、なんだかすごい質問まで来たことを思いだす。
こりゃ、たいへんなタイトルなんだな、と改めて感じたものであった。
腹を立てるのは別に相手のせいではないから勝手に立てるのはいいだろうし、
悲しみ、という感情も相手のせいではないし、特段悪いものではないから、
悲しむときは大いに悲しみという感情にひたればよいと思う。
腹を立てることで味わう切なさが、甘酸っぱければ甘酸っぱいほど、自分が抗(あらが)っていることの自覚のようなものが、静かにやさしく、私自身を包み込んでくれることが分かる。腹を立てたことで、抗う自己世界の隙間から(偶然にも)ちょっぴり見えてくる安堵の世界、心底安心の世界があるわけで・・・。
それが、タイトルの言葉だけに反応し、
「腹を立てるのはダメなんすか?」となるのが不思議。
なぜ、そんな話になってしまうのか、ずいぶんとややこしい回路になっているのがみてとれる。
今、
「困らないけど、いいですか」
というタイトルに変えたら、そういうメールはめっきり、減った。
一度だけ、中国地方(山陰)のお寺の若い坊さんからメッセージが届いたが、それはむしろ「タイトル、おもろいですね」というだけの簡単な感想だったネ。
とまれ、今年も叱らない、困らない、で一年を過ごしていきそうだ。

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