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「先生」のかわりに「おかあさん」と呼ばれることがある。
言い間違えた子どもも、気づいて苦笑し、
「あ、先生なのに、おかあさんって言っちゃった」と笑う。

教師がよく体験する、『あるある』、である。


ところで、私は男なのに、なぜか「お母さん」と呼ばれることが多い気がする。
たまに「お父さん」の間違いも、ないことはない。しかし、圧倒的に「お母さん」の言い間違いの方が多い。これは、なぜだろうか。

つまり、教室で教師がふるまう所作は、多くは女性性を感じさせることが多いのではないだろうか。子どものイメージとして、「母」を感じさせているのではないだろうか。4年生の子たちに、「母性」を感じさせるものが、わたしにどうやら備わってきているらしい。

ためしに同僚に尋ねてみたところ、
「いや、ふつうにありますよ」と。
彼はまだ30代初めで、若々しい男性だ。
にもかかわらず、

「お父さんと呼ばれるよりも、お母さん、って言われることの方が多いですねぇ」

とのこと。

たしかに、思い当たる節は、ある。
子どもが風邪をひいて休んだ次の日は、「だいじょうぶだった?」と声をかける。
おでこに手をあてて熱っぽかったら一緒に保健室へ行く。
手洗いうがいを、せっせと奨励するかと思えば、給食の盛り付けをチェックし、おかわりをうながす。
低学年ならおもらしの処理、もしも吐いてしまったらその処理もする。
給食を盛り付ける台はいつもきれいに!と呼びかけ、自らせっせとアルコールで消毒したりもする。
そうじの時間は腕まくりをし、てぬぐいをかぶって隅から隅まで箒ではいて、水拭きだ。

こういう姿を見ていると、いわゆる世間一般の、「お父さん」のイメージとは、ちょっと違っている。だから、「お父さん」とは呼び難いのかもしれない。

教師は、教師をしているうちに、母性を身につけるのではないか。
もちろん逆もあるだろう。女性の先生は仕事を通して、だんだんと厳しく統率するような父性を身につけていく。

わたしは男である以上、父性を自然と身につけていくような社会で生きてきた。また、社会全体からもそれを期待されてきたと思う。そして、自分では無自覚であっても、父性を身につけてきたと思う。
わたしが就職する頃は、「24時間たたかえますか」の時代だった。だからか、男は仕事をはじめとした社会の中で、なお期待される男らしさにこたえなければない、と思うようになった。映画、アルマゲドンで、味方を救うために、あるいは娘を救うために、自ら死を選ぶヒーローの姿に、男として、父としての理想を感じ取ったように思う。(今はもう、アルマゲドンの世界観や価値意識は、とうてい流行しそうもないネ)


しかし、教師はそれだけではダメだ。
父性を通りこし、母性的なものも含んだ「親性」を持つことが必要になる。

わたしは、ひそかに、女性の先生から学んでいることがある。
その先生の、子どもとのやりとり、同僚とのやりとり、から学ぶことが多い。
やはり、女性ならではの特質を、そこにみる。
無表情の男性教師に対して、やはり女性の先生は、自分の気持ちをきちんと伝えようとしている気がする。表裏なく、隠そうとせず、頑張ろうとせず、プライドを気にせず、地の自分を出していけるところがカッコイイ。

男性教師の場合は、ちょっとしたプライドが邪魔をするのだろうか。気持ちを伝え合ったり、共感的なコミュニケーションを図ったりすることが不得手かもしれない。もちろんこれは、わたしのただのイメージ・感想であるし、個々の人間に当てはまることではないだろう。しかし、わたしが勝手な印象で言ってもよければ、
「怒ることは得意だが、褒めることは苦手」
という男性教員が、割合としてはやや多いと思う。
感情をきちんと表現できる男性教師は、ずいぶんと出来た方だろう、と思う。

一方で、確実に、時代は変わっている。
「こうでなければならぬ」という肩の力を抜いて、ひとの顔を、ひとの目を、きちんと見ていようとする男性教員も、また、増えているように思う。

自分がそうなるように、そうなれるように、精進したいと切に願う。

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