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ある日、『りんごかもしれない』という絵本を読みました。
この絵本は、りんごをある男の子がテーブルの上に発見するも、そこで妄想にふけりはじめて、

「いや、もしかすると、あれはりんごに見えているだけで、実際はちがうかもしれないぞ」

と思い始めるのです。小さな機械のつまったマシンかもしれないし、巨大なさくらんぼの片割れかもしれん、と、自由な発想で、どんどんと可能性を拡げて考えはじめるのです。


わたしも、まねをして教室にりんごを持ち込み、りんごを子どもらに見せながら、

「いま、事実と思うものを、ノートに書いてごらん」


とやると、

〇先生がいるのは事実。
〇先生が立っているのも事実。
〇先生がりんごをもって、「事実はなんだろうか」と言ったのが事実。
〇先生のような人が、りんごのようなものを持ってる、ということが事実。
〇おそらく新間先生だと思われる生き物が、黒板の前にいる?(ようだ)
〇先生は人間だ、というのは事実。
〇先生が赤い、なにかの実、みたいなものを持っている、それが事実。


とか、適当なことをノートに書くわけ。

世界中の万人が、昨日も今日も明日も、それをたしかめて事実だと明らかにできることかどうか。

たとえAさんはそうだ、とするが、Bさんはそうではない、とするのであれば、
それは「事実」とはいえない、ということにしますと、
われわれの頭の中に去来するものはほとんどが、ただの感想、ということになります。

しかし、一方で目の前にはきちんと事実がごまんとあるわけで、
実際、ひとの脳内の思念内容以外は、この世はすべて事実ばかりで構成されているのでしょう。

昨年を振り返ってみて、わがクラスの特徴として、子どもたちが共通理解するベースに
〇いじめる人がいちばん困っていてさみしい人
〇不機嫌なときには他の人に嫉妬しやすくなる
〇事実ではなく、「感想」で苦しむことが多い

この3つがあるんじゃないかなあ、と思います。

いずれも、毎日の授業のなかで、
最初はAだと思っていたけど、もっと調べたらBかもしれない。
という体験をたくさん積むことで、獲得していけるもの。

りんご