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先日、幅跳びの記録をとった。

2mの子と、2m50cmの子がいて、担任のわたしが、

「おお、2m50cm、すごい!」

と大声で叫んでいると、担任のそういう態度については、まったくふつうに受け入れています。

しかし、

あまり2mだろうが、2m50cmだろうが、そのことの価値については、あまり興味は無いようなのです。

なぜ、必死になって、他の子の記録を超えようとしないのでしょうか。


〇〇ちゃんがかっこよく跳べば、みんなが

「オー」

と言い、

△△ちゃんがタイミングが合わなくてずっこけると、みんな、

「あー」

と言うのであり、

まあ、そんな程度であるわけです。


次の日、「先生、わたしの記録ってどんだけだっけ?」

と聞いてきて、それもまたすぐに忘れてしまうようなのが、小学校4年生なのです。


そのことを残念に思ったわたしが、

走り幅跳びにおいて、記録を伸ばす価値、そして、

長い距離を跳ぶ意義を、これでもかと論じていると、

3月生まれの、教室でも一番幼い感じのする子が、

「先生、これって、遠くに跳べる方がいいんですか?」

と真顔で聞いてきました。

わたしは職業人として、誇りをもって、

「そういうことになってます!遠くに跳ぶのが良い!」

と大声で断じました。

しかし内心、

遠くに跳べるのが良い!と言ったところで、

「イヤ、べつに、それと、人の生きる尊さとは、関係ないやね」

という思いも・・・。



彼にとって、かけがえのない記録は、けっして風化しない。

しかし、他と比べることによる価値は、風化する。

小学校では、「価値」という言葉が、なんとなく雲散していく運命にあるようだ。

「価値」は、だれからも気に留められることなく、なんとなく浮いたまま、忘れられ、消えていく。

rikujou_habatobi