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行き過ぎた感情を、処理する方法。
感情をどうするか、というの、
とくに誰かから、教わったり、習ったりしたことがない。
子どもたちと話していても、
「むかつくから」、「イライラしたから」、「カッとなって」、
というような言葉が、出てくる。
こういう種類のフレーズしか、習っていないからかも、と気づいた。
よく聞く、「つい、カッとなって」、というやつ。
こんなの、よく表現できたなあ、と感心してたら、ハッと気づいた。
これ、自分で考えた表現じゃないわ。どっかで、読んだり、聞いたりしてるわ。
ためしに、身近な人間に、
「ねえねえ、ついカッとなって、〇〇しちゃった、という表現あるでしょう?」
と聞いて回った。
「その表現って、言うことある?これまで、言ったことある?」
すると、みんな、
「あるよ」
と言う。
そこで、
「その、ついカッとなって〇〇しちゃう、みたいな文章って、自分で考えたの?」
と聞くと、
「いいや。どっかで聞いたり、読んだりしたのだと思う」
つまり、この、
「つい、カッとなって、〇〇しちゃう」
という文章表現って、どこの誰が考えたかしらんけど、
長きにわたって、日本の中で、ずいぶん流行し、使われてきた、ということらしい。
流行語大賞がとれる!
これ、表現、とか言い方、という問題ではないな。
頭に来たときの感情の処理の方法なんだ。
頭にきたら、何かに当たる、というの。
「そうするものだ」と、刷り込んでる。
その「刷り込み」が、具体的に、後々の世代へと、
きちんと受け継がれて行っている、ということ。
まさに、『言霊(ことだま)』、と言っていいレベルで。
つい、カッとなったら、数える、という人はあまりいない。
というのは、日本語ではまだ、
「この間、ついカッとなってしまって、数を数えたよ」
という文章表現が、人々の人口に膾炙してないからだ。
一度、日本人全員で、流行させてみたらいいと思うね。
別なパターンを。
カッとなったら、
数える、とか、散歩する、とか、甘いもの食べる、とか。
そしたら、
「ついカッとして、〇〇しちゃった」というのが、ふつうである、
と思い込んでいたところに、ちょっとした変化が起きる・・・かも。
我々は、ふだん使われてきた日常のフレーズから、
言霊にあやつられるようにして、
「これが当たり前だ」 「これが男(女)らしいのだ」 「これがあるべき姿だ」 というように、
これが正しい、とされる感情表出と感情処理の仕方を、学んできているようだ。
いったん、そこをぶちこわすのが、これからの道徳教育、ということになっていくだろうネ。
行き過ぎた感情を、処理する方法。
感情をどうするか、というの、
とくに誰かから、教わったり、習ったりしたことがない。
子どもたちと話していても、
「むかつくから」、「イライラしたから」、「カッとなって」、
というような言葉が、出てくる。
こういう種類のフレーズしか、習っていないからかも、と気づいた。
よく聞く、「つい、カッとなって」、というやつ。
こんなの、よく表現できたなあ、と感心してたら、ハッと気づいた。
これ、自分で考えた表現じゃないわ。どっかで、読んだり、聞いたりしてるわ。
ためしに、身近な人間に、
「ねえねえ、ついカッとなって、〇〇しちゃった、という表現あるでしょう?」
と聞いて回った。
「その表現って、言うことある?これまで、言ったことある?」
すると、みんな、
「あるよ」
と言う。
そこで、
「その、ついカッとなって〇〇しちゃう、みたいな文章って、自分で考えたの?」
と聞くと、
「いいや。どっかで聞いたり、読んだりしたのだと思う」
つまり、この、
「つい、カッとなって、〇〇しちゃう」
という文章表現って、どこの誰が考えたかしらんけど、
長きにわたって、日本の中で、ずいぶん流行し、使われてきた、ということらしい。
流行語大賞がとれる!
これ、表現、とか言い方、という問題ではないな。
頭に来たときの感情の処理の方法なんだ。
頭にきたら、何かに当たる、というの。
「そうするものだ」と、刷り込んでる。
その「刷り込み」が、具体的に、後々の世代へと、
きちんと受け継がれて行っている、ということ。
まさに、『言霊(ことだま)』、と言っていいレベルで。
つい、カッとなったら、数える、という人はあまりいない。
というのは、日本語ではまだ、
「この間、ついカッとなってしまって、数を数えたよ」
という文章表現が、人々の人口に膾炙してないからだ。
一度、日本人全員で、流行させてみたらいいと思うね。
別なパターンを。
カッとなったら、
数える、とか、散歩する、とか、甘いもの食べる、とか。
そしたら、
「ついカッとして、〇〇しちゃった」というのが、ふつうである、
と思い込んでいたところに、ちょっとした変化が起きる・・・かも。
我々は、ふだん使われてきた日常のフレーズから、
言霊にあやつられるようにして、
「これが当たり前だ」 「これが男(女)らしいのだ」 「これがあるべき姿だ」 というように、
これが正しい、とされる感情表出と感情処理の仕方を、学んできているようだ。
いったん、そこをぶちこわすのが、これからの道徳教育、ということになっていくだろうネ。
けっこう、人間はふつうそうするものだ、と思い込んでいることの中には、実は自分が望んではいない行動様式や所作がありますね。自分もこの文章を書きながら、もっと自由になりたいものだ、と思いましたネ。