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道徳の副読本。

夢とか希望、とか、強調しすぎ。

と、思うときがある。

道徳の資料に、「夢」を語る、というのがありまして・・・。




するとネ、子どもたちみんな、

ほぼ全員が、『職業』を言うのですよ。



あれ?

夢って、職業のことだっけ?

と。



必ずしも夢が、職業名とフィットしてない子もいるだろうに。

人間って、「職業」がやりたくて生きてるわけじゃないのにね。




副読本が、あまりにも性急に、「夢を持て」と煽るから、

子どもたちみんな、職業を言っちゃう。

夢とはなにか、ということを考えないまま、

ともかく、

「言え、言えよ、あるだろう、ほら、言え、言って!!」

と、焦らせる。

だから、

「え?夢?なんだ?夢ってなに?人生?は・・・?分からないけど、なにか・・・あの、サッカー選手!

言い終わった子は、

「いいでしょ? もう、きちんと言ったのだから」

という顔をしている。




「この人生をどうしていきたいか、

そして、これから、

 どんな社会をデザインすれば、

あなたが幸福に生きられるだろうか。

 自分と周囲の人と、どのような関係でいることが大事だと思うか。

その社会であなたは、どう生きていくつもりか」




そういう感じのことは何も無いまま、職業を言わせて、

「はい、夢がきちんと考えられましたね!」

と、なるわけがないよね。




夢を言うのが良い、ではなく。

その前に、頭も心も、うんと安心できるように、なっているか。

安心している子にしか、夢は見えてこない。




夢も希望も、なくても生きていける社会があればいいなぁ。

夢のある人はもちろん、

「今はまだ無い」という人もふくめて、どんな人も幸せに暮らせる。

「夢?必要ないね」

という人も、幸福に暮らしていける。

そのための条件をそろえておく、というのが、社会のデザインだ。

そんな社会であって、ようやく、子どもも安心して、はじめて、夢を語り出すことができる。


誰かに責められるのを防ぐための夢、

将来の不安から逃れるための夢、

夢を持てないことの恐怖から遠ざかるためだけの夢、

体裁、世間体、親の機嫌をとるための夢、

「それを言わなければならない」と思い込んでの夢、なんかではない、

本当に本当の安心に包まれたところからの、夢を。




子どもに向けて、「努力して幸せになりなさい」というのが、いちばん、嘘。

嘘で塗り固めた上のとどめの一撃が、

「あなたが幸福になれないのは、〇〇が足りないから」

というやつね。



とびだせ!子どもたち!