元エンジニア・新間先生の自問自答ブログ

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

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子どもを叱る場面は激減したが、

それでも『意地悪』は起きる。

わたしは、頭を整理してみた。



大人が子どもを叱る場面は、大きく2つに分けられる。

1) 行動面がマズイので叱る

具体例)
・静寂を求められる式典でうるさくしゃべるので叱られる。
・練習をしておかないとできないのに練習をさぼってリコーダーが吹けず叱られる。
・ぞうきんをきちんとしぼらず、床がべちょぬれで叱られる。
・盗みなど反社会的な行動や、交通ルールなどを違反して叱られる。

2) 友達どうし、人間関係の『意地悪』があるので叱る

具体例)
・友達の悪口を言う
・友達のものをこわす
・友達をからかう


大きく分けると、この2つだ。


このうち、1)は簡単だ。

先日より書いているところの、
事前に、子どもがよく理解できるように、趣旨を説明したり、
どうやるとうまくできるのか、なぜそれが皆にとって良いのかなどを
きちんと教えておくことで、叱らずに済む。

しかし、2)は、手ごわい。

これらは、単純に、
仲良いことが良いんだよ、と諭しても、それほど効果がない。
また、「自分がされたくないことはしないのが社会のルールだ」などと、いくら教えても、どこかしらで『意地悪』は出てくる。表面的に解消したように見えても、根本的なところでの『意地悪』は、潜んでいるものだ。


わたしは、2) については、やはり叱らないではいられないのではないかなあ、と、最初、ほんの少し考えてみた。

しかし、なんとなく、やっぱり、心の底では、

「叱らずに済むんじゃないかなあ」

という思いが、ぼんやりとだがある。
ぼんやりとだが、はっきりとあって、消えることがない。

そのうちに、そのぼんやりとしていた感覚はますますはっきりとしてきて、

「なにかわけははっきりしないが、やっぱり叱らずに済みそうだ」

という確信は、ますます明確になってくる。

というか、その明確さは激しくなってきて、その異常なほどの確固たる自信の湧きように、自分でも驚くほどだ。

最後には、絶大なる確信というか、もうぜったいに打ち消しようのないほどの自信が胸から飛び出てきそうなほどにまで巨大なものとなって、自分の心の中に、響き渡っている。

しかし、なぜなのか、分からない。


分からないから、どうも気持ちがスッキリしない。
どうして自分にそれだけの自信が湧くのか・・・?

あとで分かったのだが、

それは、自分の中に、
人間関係のトラブルは、ぜったいになんとかなるし、そのトラブルは、ほとんど消えていくだろう
という予測があったからだった。

P1190059
写真は、富山の海。
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