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夕方。
まだそれほど暗くない夕暮れの入り口という時間帯だった。
高速道路のサービスエリアで停車し、トイレから帰る途中、ふと、ある人間の姿が目に留まった。

その人は、うす暗くなったためか、トイレの前の照明をたよりに、そこにいたようだった。

わたしは思わずたちどまって、その姿に見入ってしまった。その方は、なにしろ一生懸命に、アキレス腱をのばしていらっしゃった。すぐそばの、コカ・コーラの自動販売機の灯りが点滅するのに合わせたように、その方はかなりの勢いで、懸命に体操をつづけた。

私よりも少し年配かと思う。学校の役職でいえば、教頭か校長、という感じ。

夕闇せまるサービスエリアで、黒い影が寸暇を惜しむようにして、足腰をまわしたり、うでを回旋させたり、前後にはげしく長い身体を折り曲げたりしている。一瞬わたしは、恥ずかしいところをみちゃったな、と思った。

影は、リズミカルに動きつづける。
人間と言うのは、こんなにも動くものだったのだ。
高速道路を運転する間じゅう、ずっと同じ姿勢を続けてきていたせいか、わたしは人間というのがこんなにもやわらかく体を動かすことなど、すっかり忘れたような気分でいた。


寸暇を惜しんで、という言葉が、アタマに浮かんだ。
わたしにはこれまで、「寸暇を惜しんで」体を動かす、という体験があったろうか?

黒い影は休みなく、ストレッチを続けていた。
先に感じた、気恥ずかしさのようなものは消えていた。
そのかわり、おそらくこの方の帰りを待つ人や同乗者の方のことを思うと、素直な気持ちで、
「ちゃんと目を覚まそうとしてるんだなー、えらい人だなー」
と思い始めていた。


映画の仕事をしている義弟から、こんな話を聞いた。
あるとき撮影所から出てみると、隣の建屋で撮影をしていた戦隊物のヒーローたちが、マスクを取って休憩をしていたそうだ。

科学戦隊2
もちろん、クビから下は、ヒーローのスーツ。
おなじみのレッド、ブルー、イエロー、ピンク・・・。
みなさんかぶっていたマスクを脱いで、休憩しつつ、ペットボトルのお茶を飲んでいらした。

科学戦隊
すると、驚くべし、そのうちの一人が、ヤッとばかりに建屋の骨組みにとびつき、たちまち懸垂をはじめたそうな。
その懸垂のスピードがいかにもはやくて、さすがにアクション俳優だけはある、と感心しながら、あることに気がつき、驚いた。なんと彼は、おそらく50代であろう白髪交じりの年配者だったそうだ。

「筋力がおちないよう、束の間の休み時間にも、体を鍛えてたんじゃないでしょうか」
と、義弟。

ヒーローは、悪者と戦うことだけが仕事なのではない。
ふだんから、戦う準備をしていたのだ。
白髪の頭部、額にあせをにじませ、ものすごい勢いの自主トレをやり終えた後、ようやくレッドはぶらさがった鉄棒から飛び降り、ペットボトルに口を当てた、という。

中年ともなれば腹も出てこよう、たるみも出てこよう。しかし、アクションで食べていくには、ふだんからの節制と努力が肝心なのだ。このくらいの自己管理ができなくては、戦隊のキャプテン、レッドとして活躍できるはずがない・・・。


高速道路の男性も、ちょっとした空き時間に、自分の体調、コンディションを整えようと思ったのだろう。おそらく、家族がトイレに行っているのか、買い物でもしているのか。男性は、十分念入りに身体をほぐしたあと、ゆっくりとパーキングの方へ歩いて行った。

寸暇を惜しめる人は、惜しむのが良い。
その間は、きっと充実してるはず。

わたしは誰に見られているわけでもないのに、自販機でものを買うようなそぶりをしながら、急いで足首を回した。駐車場へもどると、周りの車がライトを点灯させている。


たっぷりと、念入りに、「寸暇」を惜しむことができる人もいる。
「寸暇」のはずが、その人の手にかかると、あら不思議。あたかもはじめから予定してあったように、事柄がぐんぐん進む。時間の使い方が、なにしろうまい。なにごとによらず計画的で、これからの行動のすべてを予定表に、細かく列挙できるような人だ。

わたしは、とてもそうはいかない。
わたしの「寸暇」は、安っぽい。足首を数回まわしただけの「寸暇」である。

しかし、そのわずかな「寸暇」が、くすぐったいくらい気持ちがいい。
そもそも、人生は空白だらけ。
そこに、自分を大切にできるわずかな世界を見つけ出すのに、成功したのだ。

「寸暇」は、寸暇であるからこそ、価値がある。
そこに、あれもこれもと、自分の要求を詰め込もうとするのは間違いだ。
いつの間にか、本当にやれるはずのことが、犠牲になってることだってあるのだから。



かっこ良かっただろうな、レッド。
あれは、ふとした流れで、わずかにやってるから、いいのだな。
寸暇の懸垂だから、いいのだ。

「このままじゃ」

正月の最初に、わたしは今年初の独り言を言った。

「おれは、レッドにはなれんぞ。・・・せいぜい科学研究所のロボット犬くらいだな」

高速道路を照らすまぶしいハイウェイのライト群が、つぎつぎと現れては、背後に消えていく。
家族はうしろの席でとうに寝入ってしまって、わたしの独り言も、だれも聞いてはいないようだった。

犬