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日体大が、体罰をなくすための本気の講義を行った。
遺族からの話を聞きながら、涙を流す受講生たち。
これで日体大出身者を将来の加害者にさせないことができるかもしれない。
わたしはこの取り組みを評価する。
しかし、たった一つ、忘れてはいけないことがある。
これを忘れたら、この講義のすべての意味がなくなる。
それは、
「なんのためにスポーツをするのか」
ということ。
良い記録を出すことが、目的ではない。
大会で優勝することが、目的ではない。
しかし、多くの指導者が、これをいつの間にか、目的化してしまう。
大事なのは、人間がどうして、手段をいつの間にか目的にすりかえて錯覚してしまうのか、という人間の心理だ。
ここを解明しないことには、いくら遺族の話に涙を流したとしても、意味は無い。
多くの指導者が、大会のために練習している、と思っている。
だから、練習のメニューやら方法やら、コーチングだとか、ミーティングだとか、なんだかんだとその他の物が全部、「必要だ」と思い込んでいく。
間違っていることの自覚がないから、「方法」に溺れてしまうのだが、本人は「良い」と思っているし、「方法」に耽溺していること自体で満足しているから、なにも省みることがない。
「〇〇が必要だ!」
と叫ぶ指導者は、すでに、大会で優勝することが目的になってしまっている。
そこには、すでに小さな「体罰」の芽が含まれている。
強く思い、強くねがって、がんばってがんばって、とやっている人ほど、目的が見えなくなるし、手段しか目に入らなくなる。だから、コワイ。
体罰の芽は、ない人には無いけど、ある人にはある。
ある人が、一生懸命に「無くそう」としても、それは無くならない。
社会に根深く存在しているのだから、だれも逃れようがない。
「体罰のない」社会であれば、「体罰の無い」学校であれば、体罰の無い人が育つ。
体罰を禁止し、体罰をやめよう、と頑張るだけの学校には、まだまだ、体罰はずーっとありつづける。
日体大が、本気で「体罰をなくす」という。
わたしはその「本気で」というフレーズに、心が動く。
しかし、ただ頑張るだけ、被害に思いを致すだけではダメだ。
「体罰が無い」という社会、スポーツを、とことんまで考えないと、ダメだ。
具体的に、スポーツに関わる人間すべてが、一点の曇りも無く、明るく生きられるようにならなければだめだ。
そして、それはあまりにも簡単なことで、これを難しい、と言う人がいるから、体罰は無くならない。
「人間らしさ、人間としての・・・」
(体罰なんて、なくならないよ、という人。どうぞ、そう思っていてください。・・・そう、本気じゃないのネ?)
体罰をなくす、のではない。
体罰のない社会、体罰の無い人間、なのだ。
概念がちがう。
「体罰をなくす」は、努力だ。
「体罰がない」は、そのまま、だ。
努力の必要が無い。
最初から、努力をしなくても、身についている。
あるいは、余計な「体罰発想」が、もともと無い状態。
体罰、などという行動様式そのものの発想がない。
だから、起こりえない。人をなぐる、蹴る、という行動の発想すら、存在しない。
これを、けっして起こりえない、ということから、『ヘルフリーズ発想』という。
叱らないでもいいですか、という、このブログの。
一番元に通じる記事を、ひさしぶりに見た。
日体大が、体罰をなくすための本気の講義を行った。
遺族からの話を聞きながら、涙を流す受講生たち。
これで日体大出身者を将来の加害者にさせないことができるかもしれない。
わたしはこの取り組みを評価する。
しかし、たった一つ、忘れてはいけないことがある。
これを忘れたら、この講義のすべての意味がなくなる。
それは、
「なんのためにスポーツをするのか」
ということ。
良い記録を出すことが、目的ではない。
大会で優勝することが、目的ではない。
しかし、多くの指導者が、これをいつの間にか、目的化してしまう。
大事なのは、人間がどうして、手段をいつの間にか目的にすりかえて錯覚してしまうのか、という人間の心理だ。
ここを解明しないことには、いくら遺族の話に涙を流したとしても、意味は無い。
多くの指導者が、大会のために練習している、と思っている。
だから、練習のメニューやら方法やら、コーチングだとか、ミーティングだとか、なんだかんだとその他の物が全部、「必要だ」と思い込んでいく。
間違っていることの自覚がないから、「方法」に溺れてしまうのだが、本人は「良い」と思っているし、「方法」に耽溺していること自体で満足しているから、なにも省みることがない。
「〇〇が必要だ!」
と叫ぶ指導者は、すでに、大会で優勝することが目的になってしまっている。
そこには、すでに小さな「体罰」の芽が含まれている。
強く思い、強くねがって、がんばってがんばって、とやっている人ほど、目的が見えなくなるし、手段しか目に入らなくなる。だから、コワイ。
体罰の芽は、ない人には無いけど、ある人にはある。
ある人が、一生懸命に「無くそう」としても、それは無くならない。
社会に根深く存在しているのだから、だれも逃れようがない。
「体罰のない」社会であれば、「体罰の無い」学校であれば、体罰の無い人が育つ。
体罰を禁止し、体罰をやめよう、と頑張るだけの学校には、まだまだ、体罰はずーっとありつづける。
日体大が、本気で「体罰をなくす」という。
わたしはその「本気で」というフレーズに、心が動く。
しかし、ただ頑張るだけ、被害に思いを致すだけではダメだ。
「体罰が無い」という社会、スポーツを、とことんまで考えないと、ダメだ。
具体的に、スポーツに関わる人間すべてが、一点の曇りも無く、明るく生きられるようにならなければだめだ。
そして、それはあまりにも簡単なことで、これを難しい、と言う人がいるから、体罰は無くならない。
「人間らしさ、人間としての・・・」
(体罰なんて、なくならないよ、という人。どうぞ、そう思っていてください。・・・そう、本気じゃないのネ?)
体罰をなくす、のではない。
体罰のない社会、体罰の無い人間、なのだ。
概念がちがう。
「体罰をなくす」は、努力だ。
「体罰がない」は、そのまま、だ。
努力の必要が無い。
最初から、努力をしなくても、身についている。
あるいは、余計な「体罰発想」が、もともと無い状態。
体罰、などという行動様式そのものの発想がない。
だから、起こりえない。人をなぐる、蹴る、という行動の発想すら、存在しない。
これを、けっして起こりえない、ということから、『ヘルフリーズ発想』という。
叱らないでもいいですか、という、このブログの。
一番元に通じる記事を、ひさしぶりに見た。