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「ほめ殺し」という話題。
学校という場所では、どの6年生も、「すごい6年生」と言われるようにと、仕向けられていく。
そりゃ、たしかに、6年生の中には、すごい人もいるだろう。
走るのだって早かろうし、マラソンだって早かろう。
下級生から見たら、すごいことをどんどんしていくように見えるのが、6年生である。
しかし、事実実態は、「6年生の中にはすごい人がいる」 ということにすぎぬ。
それが、いつの間にか、「こんなすごい人がいる6年生はすごい」と変わっていく場合がある。
ここ、論理がすこし破綻しているのですが、お気づきでしょうか?
傍から見ている人は、ああ、6年生の中にもいろいろあらあな、と至極当然の事実が見えるのですが。
しかし、「すごい」と言われると、言われた当の6年生が誤解するからねえ・・・。
自分はとくにどうということもない普通の少年であるわけなのに、「すごい」と思われることに、なんだか気分が高揚していくのだ。
「おれら、すごいんだって、ネ・・・うふふ」
そして、いつの間にやら、
<6年生としての誇りを胸に>
とか、
<最上級生としての使命>
なんてものによって、ある方向・行動へと、動員されていくことになる。
電通マンの社訓だとか、社風だとか、そんなことにも通じるかな・・・。
いったい、『誇り』、というものは何なのだろうか。
少なくとも、自分の心の内部から自然と生まれてきているもののことだろう。
他や周囲が、
「誇りを持ちなさい!」
と命令するものではない。
また、命令されたからといって、指示されたからといって、誇りを持てるようになるとは限らない。
内面、人間の心の内面の世界のことである。
それを、〇〇のように思いなさい、というのでつじつまを合わせてみたところで・・・多くは嘘といつわりに満ちたものにしかならない。
内面に自発的に生まれてくるものと、他から要請されて、持った気分になっただけのものとは、まるで正体が異なる。
6年生にも、のんびり屋もいれば、頑張り屋もいるし、頑張り屋さんの中にも、ちょっと休憩したい子もいるだろう。図工の好きな子もいれば、水泳だけしか興味がない子もいるし、勤勉なときもあれば、休みたいときもあろう。
それを、たとえば、ですが、
「6年生は、自覚と信念を基に、誇りと使命感をもって、がんばっている」
と言ってしまうのは、そりゃあ、嘘でしょう。全員じゃないんですから。
6年生は〇〇だ、という文は、意見と感想にすぎません。
それを、さも事実であるかのように言ってしまうのは・・・反則ですわナ~。
「掃除をこんなに真剣にやる人がいる6年生はすごい」
↑ これにも論理的な破たんがあるのですが、スーッと言われると、なんだか通ってしまう。
そりゃあ、なかには真剣にがんばる6年生もいるだろよ、というだけの話が肥大化する。
考えてみれば、学校の清掃を業者に頼んでいる公立小学校なんていうのは、実際にはほとんど無いわけで、広い校内がきれいに保たれているのは、ほとんど子どもががんばって掃除をしているからです。
そう考えると、昔から学校が埃だらけのひどい状態になっていないのは、「ほとんどの子がきちんと清掃ができる小学生」だからだ、ということになる。
だとすると、6年生は清掃を頑張っています、とわざわざ自らを縛るようなセリフを聞く必要もないのに、6年生の清掃する姿はすごい、と言われると嬉しくなってしまって、『そんなふうに思われているんなら、がんばらなくっちゃ』というふうに、がんばっているというのは、いったい何だろうか。
また、教員がそれをいいことにして、
「6年生はすごい!ぞうきんをかたくしぼって、時間まできっちりと拭ききろうとしていく!まさに全校のお手本です!」
などと言い、その言葉に陶酔したようになって6年生がさーっと動いていく。
これ、心からの行動では、まったく無いわけね。
価値があるかないか、と言われたら、無い。
なぜかというと、これは、麻薬のようなもの。
「ほめ薬」の切れたとき、反動が怖い。
・・・じゃあ、なんのために褒めるのかって・・・、ね。
すごい、というのは、いったい何だろうか。
すごい、という日本語の、
圧倒的な「意味のない感じ」・・・って・・・。
「ほめ殺し」という話題。
学校という場所では、どの6年生も、「すごい6年生」と言われるようにと、仕向けられていく。
そりゃ、たしかに、6年生の中には、すごい人もいるだろう。
走るのだって早かろうし、マラソンだって早かろう。
下級生から見たら、すごいことをどんどんしていくように見えるのが、6年生である。
しかし、事実実態は、「6年生の中にはすごい人がいる」 ということにすぎぬ。
それが、いつの間にか、「こんなすごい人がいる6年生はすごい」と変わっていく場合がある。
ここ、論理がすこし破綻しているのですが、お気づきでしょうか?
傍から見ている人は、ああ、6年生の中にもいろいろあらあな、と至極当然の事実が見えるのですが。
しかし、「すごい」と言われると、言われた当の6年生が誤解するからねえ・・・。
自分はとくにどうということもない普通の少年であるわけなのに、「すごい」と思われることに、なんだか気分が高揚していくのだ。
「おれら、すごいんだって、ネ・・・うふふ」
そして、いつの間にやら、
<6年生としての誇りを胸に>
とか、
<最上級生としての使命>
なんてものによって、ある方向・行動へと、動員されていくことになる。
電通マンの社訓だとか、社風だとか、そんなことにも通じるかな・・・。
いったい、『誇り』、というものは何なのだろうか。
少なくとも、自分の心の内部から自然と生まれてきているもののことだろう。
他や周囲が、
「誇りを持ちなさい!」
と命令するものではない。
また、命令されたからといって、指示されたからといって、誇りを持てるようになるとは限らない。
内面、人間の心の内面の世界のことである。
それを、〇〇のように思いなさい、というのでつじつまを合わせてみたところで・・・多くは嘘といつわりに満ちたものにしかならない。
内面に自発的に生まれてくるものと、他から要請されて、持った気分になっただけのものとは、まるで正体が異なる。
6年生にも、のんびり屋もいれば、頑張り屋もいるし、頑張り屋さんの中にも、ちょっと休憩したい子もいるだろう。図工の好きな子もいれば、水泳だけしか興味がない子もいるし、勤勉なときもあれば、休みたいときもあろう。
それを、たとえば、ですが、
「6年生は、自覚と信念を基に、誇りと使命感をもって、がんばっている」
と言ってしまうのは、そりゃあ、嘘でしょう。全員じゃないんですから。
6年生は〇〇だ、という文は、意見と感想にすぎません。
それを、さも事実であるかのように言ってしまうのは・・・反則ですわナ~。
「掃除をこんなに真剣にやる人がいる6年生はすごい」
↑ これにも論理的な破たんがあるのですが、スーッと言われると、なんだか通ってしまう。
そりゃあ、なかには真剣にがんばる6年生もいるだろよ、というだけの話が肥大化する。
考えてみれば、学校の清掃を業者に頼んでいる公立小学校なんていうのは、実際にはほとんど無いわけで、広い校内がきれいに保たれているのは、ほとんど子どもががんばって掃除をしているからです。
そう考えると、昔から学校が埃だらけのひどい状態になっていないのは、「ほとんどの子がきちんと清掃ができる小学生」だからだ、ということになる。
だとすると、6年生は清掃を頑張っています、とわざわざ自らを縛るようなセリフを聞く必要もないのに、6年生の清掃する姿はすごい、と言われると嬉しくなってしまって、『そんなふうに思われているんなら、がんばらなくっちゃ』というふうに、がんばっているというのは、いったい何だろうか。
また、教員がそれをいいことにして、
「6年生はすごい!ぞうきんをかたくしぼって、時間まできっちりと拭ききろうとしていく!まさに全校のお手本です!」
などと言い、その言葉に陶酔したようになって6年生がさーっと動いていく。
これ、心からの行動では、まったく無いわけね。
価値があるかないか、と言われたら、無い。
なぜかというと、これは、麻薬のようなもの。
「ほめ薬」の切れたとき、反動が怖い。
・・・じゃあ、なんのために褒めるのかって・・・、ね。
すごい、というのは、いったい何だろうか。
すごい、という日本語の、
圧倒的な「意味のない感じ」・・・って・・・。