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男風呂というのは、なぜこうも、静かなんだろうか。
若者も老人も、みんな自然と口を閉じて、静かに過ごしている。
わたしはあごまで湯につかりながら、洗い場に並んだ背中をぐるり、見渡してみた。
日帰り温泉の洗い場の、腰掛にすわった背中はどれも、生きて動いている。
どの身体も、筋肉がもりあがり、背中をこすったり、頭をぬらして洗ったりしている。
老人たちは、すべてに無駄がない。
所作ふるまいのすべてが、一直線のゆるぎないもの。
シャワーに手が伸び、顔にお湯を当てる。
ひげそりに手が伸び、しゃぼんを顔につける。
ひげをあたるスピードも角度も、決まりきったその道筋、終点までの力の入れ具合。
すべて、この人はずっとこれで、やってきたのだ。
ひげが済めば、流れるような所作で、頭を洗う。
数回濡らして、泡をつけ、指の腹で勢いよく、頭皮をこする。
ほとんど無くなりかけた頭髪の、微細な力のコントロールもまた、無意識に調整されたものであろう。
見ていると、身体から流れ落ちた泡が、隣へ流れていかないように、
サッ
とシャワーを一瞬だけ矢のように動かした。
シャワーから零点何コンマの短い間に湯が流れ、自分の出した泡をきちんと自らのエリアの排水口へと流していく。決して、泡を他へ向かわせない。
わたしはこの男の人から、なんとなく目が離せなくなっている。
手際のよい一連の動作に何とも言えないリズムがあり、見ていて心地よい。
寸分の狂いもなく、時間の無駄もなく。
最低限のスペースで、己の要求するすべての所作を、終えることができる。
さすがは、人生の先輩。
見事としかいいようがない。
すべては、無言のまま貫かれる。
日本人にとって、『湯浴み』とは、いったい何なのだろうか。
見ていると、先輩はもう一度、見せ場をつくった。
最後に、勢いよく、「パシャッ」と音を立てたのだ。
これは、「終わったよ」という合図であり、告知であり、自分自身が汚していた場所の、「清め」の「水流し」である。
そして・・・極めつけは・・・
カコーーンーー・・・
(桶をひっくり返して置く音)
ほうら・・・、エコーを響かせて、聞こえてくるでしょう?
ここまでくると、芸術だという気がする。
これが、日本中の銭湯で、老人たちが行っている、『銭湯の作法』なのだ。
無駄を省き、誤りを減らす、正確で効率的な動作の仕方。
それが、「作法」と呼ばれるものの本質であろう。
合理的で、リズミカル。
失敗を回避できる余裕をも内包し、なによりも精神を圧しない。
ストレスからもっとも遠い道、脳内の余白を保つ知恵・・・。
そう、まさにこれが、人間の知恵なのだ。
心地よい、マンネリズムに揺れながら、人間の内面を癒す所作こそが『作法』とよばれるもの。
人間と物との関係が、これほどまでに調和することがあろうとは。
今や、湯船につかった先輩紳士は、あまりにもぴったりする風景の中で、じっとまぶたを閉じている。
紳士の禿げあがった頭部の向こうに、白いもやのかかった雪山の頭頂がちらりと、姿をのぞかせていた。
絵になる男はいつでもどこでも、絵になるものである。
あるいは、絵の中に入り込める人であるのだろう。
「かっこええわあー・・・」
男風呂というのは、なぜこうも、静かなんだろうか。
若者も老人も、みんな自然と口を閉じて、静かに過ごしている。
わたしはあごまで湯につかりながら、洗い場に並んだ背中をぐるり、見渡してみた。
日帰り温泉の洗い場の、腰掛にすわった背中はどれも、生きて動いている。
どの身体も、筋肉がもりあがり、背中をこすったり、頭をぬらして洗ったりしている。
老人たちは、すべてに無駄がない。
所作ふるまいのすべてが、一直線のゆるぎないもの。
シャワーに手が伸び、顔にお湯を当てる。
ひげそりに手が伸び、しゃぼんを顔につける。
ひげをあたるスピードも角度も、決まりきったその道筋、終点までの力の入れ具合。
すべて、この人はずっとこれで、やってきたのだ。
ひげが済めば、流れるような所作で、頭を洗う。
数回濡らして、泡をつけ、指の腹で勢いよく、頭皮をこする。
ほとんど無くなりかけた頭髪の、微細な力のコントロールもまた、無意識に調整されたものであろう。
見ていると、身体から流れ落ちた泡が、隣へ流れていかないように、
サッ
とシャワーを一瞬だけ矢のように動かした。
シャワーから零点何コンマの短い間に湯が流れ、自分の出した泡をきちんと自らのエリアの排水口へと流していく。決して、泡を他へ向かわせない。
わたしはこの男の人から、なんとなく目が離せなくなっている。
手際のよい一連の動作に何とも言えないリズムがあり、見ていて心地よい。
寸分の狂いもなく、時間の無駄もなく。
最低限のスペースで、己の要求するすべての所作を、終えることができる。
さすがは、人生の先輩。
見事としかいいようがない。
すべては、無言のまま貫かれる。
日本人にとって、『湯浴み』とは、いったい何なのだろうか。
見ていると、先輩はもう一度、見せ場をつくった。
最後に、勢いよく、「パシャッ」と音を立てたのだ。
これは、「終わったよ」という合図であり、告知であり、自分自身が汚していた場所の、「清め」の「水流し」である。
そして・・・極めつけは・・・
カコーーンーー・・・
(桶をひっくり返して置く音)
ほうら・・・、エコーを響かせて、聞こえてくるでしょう?
ここまでくると、芸術だという気がする。
これが、日本中の銭湯で、老人たちが行っている、『銭湯の作法』なのだ。
無駄を省き、誤りを減らす、正確で効率的な動作の仕方。
それが、「作法」と呼ばれるものの本質であろう。
合理的で、リズミカル。
失敗を回避できる余裕をも内包し、なによりも精神を圧しない。
ストレスからもっとも遠い道、脳内の余白を保つ知恵・・・。
そう、まさにこれが、人間の知恵なのだ。
心地よい、マンネリズムに揺れながら、人間の内面を癒す所作こそが『作法』とよばれるもの。
人間と物との関係が、これほどまでに調和することがあろうとは。
今や、湯船につかった先輩紳士は、あまりにもぴったりする風景の中で、じっとまぶたを閉じている。
紳士の禿げあがった頭部の向こうに、白いもやのかかった雪山の頭頂がちらりと、姿をのぞかせていた。
絵になる男はいつでもどこでも、絵になるものである。
あるいは、絵の中に入り込める人であるのだろう。
「かっこええわあー・・・」