困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

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すでに言い古されているが、なかなかその真髄が見えてこない感のある現象。

1組の先生と2組の先生と3組の先生。
この3人の人間関係が、そのまま実は、子どもたちの心の成長に結びついていることが、なんだか分かるようでわからない。

「そうなんだよねー」
「大きいよね」
「つながってるよね」


という人は多い。

でも、なぜなのか、なぜそうなるのか、と言おうとする人は少ないように思う。
それも、自分の言葉で、となると、滅多にいない。


ただ、仲が良い、というだけでも、その中味もいろいろある。
単にお互いに強く遠慮しあっているだけとか、表面上でうまくいっているように見えるだけの場合もあるから難しい。

その3人の担任どうしが、本当の意味で信頼しあっていると、子どもたちはぐんと成長する。
イベントで成長するのは、おそらく担任が信頼しあっている場合だけ、といえるかもしれない。
先生どうしがお互いを悪く思い合うような場合、子どもたちは何も成長しない。

『信頼』、という言葉のイメージや意味も、人によってかなり違うから、これもまた難しい。

ただ単に、信頼しています、という場合、本当に信頼していることはごく少ないように思われる。
一万年たっても信頼がぜったいに崩れない、という場合と、明日にでも揺るぎそうな「信頼」とでは、その中身や質が違うから。

こういうと、多くの人は

「一万年も、そんなの無理」

という。


だから、今の世の中は「不信感」が蔓延している。
「安心」という言葉の本当の意味は、あまり機能していないのが、現代社会。
ここ2000年くらいの間、「安心」という言葉は(本当には)機能していない。幻(まぼろし)の単語。

では、なぜ、一万年の信頼、ができないのか。


ああ、そうかも。
たぶん、人間ってこういうもの、という前提から違うんだろう。

隣の先生のそばをすする音が気に食わない。
 ↑
これを「反省」してるから、ダメなのだろう。

今の道徳教育は、他を悪く思う気持ちを「反省」させるのがよい、としていることが、根幹からの間違いかもしれんね。よくある、問題の前提からの間違い、というやつ。「反省すれば良くなる」というのが、根拠のない思い込みだとしたら・・・。

(これが、なぜ現在の道徳教育でいじめが無くならないか、ということへの私なりの考察です。)

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コメント

 コメント一覧 (1)

    • 1. マンタロウ
    • 2015年11月03日 08:31
    • 実にその通りだと思いますよ。青年教師だった時、生徒が、「先生たち、仲がいいねえ」と、ぼくにしみじみと言ったことがあります。担任は8人いましたが、それぞれ個性があって、性格も考えも違う。けれど、この8人のチームワークがすばらしい。生徒たちは見ているんです。担任たちの話しているところ、何気ない動作、そこに流れている空気、それらを生徒は感じ取っているんですね。だから生徒たちも、仲良くなっていくんですねえ。
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