困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者の自虐スナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

.
歴史を教える際に、2つの視点があることに気付いた。

1つは、民衆視点。
もう1つは、為政者視点。

たとえば、天草 四郎(あまくさ しろう)の一揆。いわゆる、島原の乱だ。
これを、民衆視点で語るのか、それとも為政者視点で語るのか。それによって、授業の雰囲気や、子どもたちが立つ位置が、がらりと変わる。
このことに気付いて、恐ろしくなった。


キリスト教を信じることを許されなかった民衆の視点から語れば、「為政者の非人間ぶり、人権無視のやり方」のひどいことが分かる。

禁教することで統率しようとした為政者視点から語れば、民衆がいかに「言うことを聞かない存在なのか」と映る。


考えた末、授業の半分くらいを、民衆視点から、

〇民衆はなぜ、島原で神に祈り続けたのか、を考える時間にし、

のこりの半分くらいを、為政者視点で、

〇幕府はなぜ、禁教することにしたかったのか、を考える時間とする。

というふうにした。


ここまでくると、なんとなく、当時の人々に近づいてきた感が出てくる。

だんだんとリアルな思考も、子どもたちに出てきた。

時代の閉塞感のようなものが、人々を信仰に向かわせた、というようなことを子どもなりに表現する子までいて、厳しい年貢や圧政に苦しむ民衆の様子がじりじりと見えてくる。
一方で、植民地化の流れにのる世界情勢や、キリスト教によって日本の土地がローマカトリック教会へ寄付されていく事件、はたまた偽の宣教師に騙された日本人が奴隷船で拉致される事件にも触れると、いったいこの世はどうなってるんだ、という感じ。
一気に、教室の空気が悪くなってきて・・・。



ここまできて、いちばん肝心なことを考えることにした。

押しつけや身分、上下差別による圧政、圧迫、脅迫のない平等な社会にするには?
これが最高に面白い。

大人が、「不可能だ」としていることを、子どもは、「いや、いけるんじゃない?」と言う。

それだけでも、子どもの方が頭が柔らかいし、進んでることの証明になるわね。

大人はもうそのセンスにおいて完敗しちゃってるから、諦めて子どもから教えてもらうしかない。

不可能とされていることを、可能と言わずして、人間社会が植民地主義を脱却する道はないわけで。



日本が江戸初期において西洋諸国による植民地化を免れていたように、
沖縄の小学校に米軍戦闘機が墜落するような事態を避けるべきだし、
「軍事力や経済力」、と言った言葉以外(=ではなく)で、社会の「平和、発展、豊かさ」を語る時代がくるのだから。


それは、今の小学生がやる仕事、やれる仕事。

で・・・それを見越して・・・、今の教師がやる仕事がありそうな気がするわな~。

黒菱の頂上
このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

コメントフォーム
評価する
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット

トラックバック