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つい最近、同僚の先生と、いわゆる「いじめ」のことを話していて、

「表面には出ていなくても、いじめの種は常に存在する、と思って学級をみていく方がいい」

という、ほとんどの教師が言いそうなことを改めて確認しているうちに、

「いじめてる側のほとんどが、なにかコンプレックスを抱えているよね」

という、これまたいつも話している話題になった。



劣等感、というの、とても大きいだろうと思う。
幸福とは何か、を考えるとき、「劣等感」について考えるのが手始めかな、とも。

ところが、これも注意が必要だ。
なぜかというと、「劣等感があるのがダメ」、となりやすいから。

そこからスタートすると、なかなか深まらないし、解消もできない。
クラスで話し合うとき、教師が「劣等感」を話題にすると、それを否定的に受け取って、
「劣等感があってごめんなさい」となる危険さえある。
劣等感を持っていることに劣等感を持ってしまい・・・(以下無限ループ)。
それじゃあ、いつまでたっても、〇〇感とは何か、と見極めようとする姿勢ができない。

学校・クラスでいじめについて話し合うことは一般的によくあるだろうが、いじめる側のコンプレックスを話題にした場合になんとなく「突破できない」感が残るのは、劣等感自体がダメとなって進まなかったり、優劣をつけるのが当然だとする社会の風潮もあったりするからかと思う。

子どもが自分の心を見ていけるようになるには、『心の状態をみていこう』とする強さが必要だが、それが育つまでにはかなりの粘り強い、大人のかかわり方が大事になってくる。

木もれ陽2