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前回からの、つづきです。


教室に、いろいろな、「責め現象」が起きたとき。

わたしはわりとすぐに、気楽に学級会にしてしまいます。



この日も、5時間目をすぐに学級会にしてしまった。

さ、どんな展開だったでしょうか・・・。




このようなときは、

大抵、だれもがびっくりするような結論と展開で終わります。

◯◯くんは、どうやら、まったくりんごが要らなかったわけではなかったようなのです。じゃんけんに勝ってから、自分のお皿の上に、りんごを置いてみたら、


なんだかしらないが、
とても大きく見えてきてしまった。



じゃんけんするときは、自分の気分ももりあがり、高揚していたから、りんごのあと一つくらい、すぐに食べられると思っていた。でも、目の前にしてみると、どうやら1つは多いな、と・・・。



ところが、じゃんけんで勝って手に入れたものだから、半分食べて、半分残す、ということになると、みんなから何か言われそうだ、と思った。

それで、あわてて、



「やっぱり、要らない」



と、なったのです。

これは、聞いて見ないと、分からないことでした。



みんな、

「◯◯くんは、りんごがまるごと要らないんだ、と思っていた。だから、きょうのは、じゃんけんがしたかっただけで、本当はりんごなんて、要らなかったんだと思った。要らないんなら、じゃんけんはするべきじゃない。・・・そう思ったから、◯◯くんは、良くなかった、と思った」


ああ、そうだったのか、となってから、初めて、


「じゃあ、◯◯くんを責めるべきじゃなかった」


という感想が、ようやくここで、出てくるのです。



なんで、

最初の時点で、

よく◯◯くんの気持ちを聞きもしないで、


あるいは、「◯◯くんは、要らないって言ってた」(全部まるごと要らないって言った)と、あたかも彼の気持ちを聞いた(聞けた)、と思い込んでしまって、

責めたり、良くない、と言ったり、判断したり、するのでしょうか?



ここを考える時、たいてい、子どもたちは、シーンとする。

先生が何か言うんじゃないか、と、わたしの顔をじっと見ている。



わたしは、(これはお説教じゃないんだぞ、考えるんだ、考えよう)という気持ちで、黙っている。


そのうち、子どもの中の数人が、(あ、これ、お説教じゃないな)と感じ取るようだ。

そして、ようやく、


「なんで、責めたくなるんだろう?」


と、ようやっと、考え始める。




つづく。

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