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NHKの番組「地球ドラマチック」が面白い。

最近見たのが、不思議な言語を話すアマゾンの少数民族ピダハンの話。

どこが面白いかって、このピダハンという民族、思い切りローカルな言語しか使っていないこと。
世界でこのピダハンの言葉を話せる外国人は、たった3人だけ。
グローバルのグの字もない。だけど、最高に幸せそう!

単純に考えると、ちょっと意外なのです。
だって、まったくグローバルに背を向けているのですよ。

「外の世界には行かないし、行きたいと思わない」
「外国人は来ないでほしい」


なんて、村の大人が平気で言うのです。
外の世界の言葉は、
「まがった頭の言葉」
なんだそうだ。
そして、自分たちの言葉こそが、
「まっすぐな頭の言葉」
なんだって。

これを聞いて、なんという無礼な言いぐさだろう、と腹を立てる私たち文明人は、

「そんなこといって、電気のない暮らしのどこが幸福か。ピダハンなんて、似非(えせ)の一時的な幸福感にひたっているだけだ。実際に文明に触れたり、世界中の人が使っている実に便利な他の言語を知ったりすれば、さらに幸福になれる。本当の幸福はこっちにあるのだから」

と思ってしまいがちですよね。

そもそも、彼らの言語がなんとも不思議です。
なんと、数の概念も過去や未来の表現も・無いのですヨ・・・!

これは驚くべきことだ。
「1つ、2つ、3つ、4つ・・・」
というような、数詞がない。代わりに、
「ほんの少し、少し、少し、足りる、多い、ずっと多い」
という具合に数える(?)のです。

なんと不便なことか!!

・・・と、私は瞬時に思ったのですが、その一方で、まてよ、とも思う。
彼らは、それでまったく用が足りているのですし、困っていないのです。二つだろうが、三つだろうが、人数分あって、みんなの腹が満たされたら、それは足りた、ということ。もしも、

「もっとくれ。腹が減ってる」

という人が一人でもいれば、それは、不足だった、ということです。

ま、シンプルっちゃ、シンプルですわな。

それだけじゃない。
次に、驚くのは、接続詞が無いこと。たとえば、
○○と△△と□□は元気だ。

というような、「と」という接続詞が無い。

○○は元気だ。
△△は元気だ。
□□は元気だ。
・・・

並んで、順番に、一人ずつ、言う。
全員分、言うのです。

全員分ですよ!
なんというおおらかな文化でしょうか。
しかしこれは、七面倒だし、手間がかかる。
まともな『文明人』なら、じれったくて、仕方のない話だね。
しかし、ピダハンたちは、これで困っていない。
時間がかかっても、一人ずつ、大切に思いをこめて、言ってあげればいいのだから、困らないのです。
ピダハンは、一人ひとりを大切にする。一つひとつに、思いを込めるのです。「忙しいからやめだ」とは思わないみたい。そもそも、「忙しい」という単語が無い。なぜなら、未来を示す言葉がないから。

つまり、時間の概念が、まったく今の文明とはちがう。
常に、今日であり、今、なんだって。
だから、未来形や過去形がない。
理解できん。


想像できますか・・・?
ふつうは、想像することが・・・できないわね。
笑ってしまう!!



この民族は、そもそも、蓄えをしない。
私たちは疑問に思う。たくわえがないので、生きていけるのか?
答えは、YES。
目の前の川の魚は、常にいる。常に、泳いでいる。
昔から、川はなくならない。魚が絶えたことが無い。

だから、貯蓄、という概念が育たなかった。
また、、という概念も育たなかった。
当然だ。貯蓄、という技法や概念がそもそも無ければ、、という概念も発生しないのだから。

したがって、ピダハンはをもたない。
また、所有がない。だから、争奪がない。
未来のために、という思考もない。
ひたすら、を良くする。

だから、みんなまじめに働く。
家族のために、魚をとり、獣をとる。
狩猟採集で、恵みを豊かに享受しながら、家族であそぶ。村の皆で遊ぶ。のんびりと、大自然に包まれている。したがって、束の間的・享楽的に、憂さを晴らす必要が無い。


言語がそうだから、彼らがそうなった、というわけではなさそうだ。
もともと、不要な概念が発生せず、さらには育たず、持ち込まれず、教育されなかった。
教育されず、概念の発生もなく、習慣も育たなかったので、逆に言うと言葉も、
「育たなかった」
のだろう。
育たなくて困らないから、それで良いんだけどネ。(育たなかった、という言い方も、多分にこっちサイドの勝手な言いぐさだろうし)

宗教家がやってきて、ピダハンに宗教を与えようと頑張ったが、彼らはそもそも「不安」がなかったので、宗教を教えることができなかった。したがって、やはり、様々な「文明的な様々な概念」も、与えることができなかった。
そもそも、与えようとしても、理解されなかった。
だって、言葉がないんだもん・・・。(まあ、言葉がそうだから、という以上に、彼らの思考概念の特長が、それを賢く阻んだのだろう)


さて、わが身を振り返ってみると・・・



日本語は、不自由だなあ、と思う。
そういって悪ければ、かなり未発達だ。
未完成だし、改訂の余地がある。

無理して、グローバル化に倣った単語を使うから、どんどん頭の中も生活もグローバル化していく。
それで、等身大の自分から離れたことばかり考えて、苦しくなってる。
だとすれば、無理しない方がいい。
我々は、自分たちの願う「生き易さ」を十分にあらわし得る単語を、どんどん発明し、使っていけばいいのかもしれない。

言語が変われば、概念が変わる。
概念が変われば、文化が変わる。
文化が変われば、生活が変わる。
生活が変われば、思想が変わる。
思想が変われば、文明が変わる。


言語から変えていけば、いい。
気が付けば、原子力発電所なんて、きちんと廃炉になっているのではないか。



自由って言葉も、新しくするといい。
平等って言葉も、新しくするといい。
威圧って言葉も、今風にしたい。

教える、学ぶ、という言葉も、変える余地がある。
創造する、という言葉も、もっと噛み砕くといい。

馴染みやすい、それでいて、自分の理想を、きちんと、やわらかく、かしこく、伝えられる単語を、もっともっと、自分がつくりだしていくことが、自立なんじゃないの。

そして、友達が新しい言葉を使ったら、協力して、もっともっと、馴染みやすい言葉に、

練り上げ

ていけばいい。

少なくとも、

「それはグローバルでもないし、辞書にも載っていないんだから、そんな勝手な言葉を使うんじゃない!」

と規制をするのは、ナシ、ちゅうことで。

少なくとも、10人以上のコミュニティで、使える言葉を発明するのは・・・別にかまわないよね?


おそらく、次に規制がかかるのは、言葉だ。
言葉が規制されてきたら、かなりヤバイ。
そうなる前の、日本人の日本人のための新しい言葉と概念が、これから必要なのじゃないだろうか。


以下、NHKの番組広報の内容↓

ブラジル・アマゾンの奥地に、ピダハンと呼ばれる少数民族がいる。彼らの言語には数や色を示す言葉がなく、過去や未来の表現もない。彼らは、アマゾンの豊かな自然の恵みの中で、「過去」を思い患うことも「未来」を憂うこともなく、充実した「現在」を生きているのだ。心豊かなピダハンの暮らしを、長年、彼らと共に暮らした元宣教師のアメリカ人言語学者の目を通して見つめる。


ピダハンの本