困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者の自虐スナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

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教員は、子どもを評価しないといけない。
評価と指導が一体なので、「指導」をするなら、「評価」もしないといけない。


さて、ある通知表に、

「林間学校キャンプ場で、毛布を角を合わせてきちんと畳む姿があり、何事も丁寧に進めようとする○○さんの心の成長を感じました。」

とあったそうだ。

総合所見と呼ばれる文章で、担任の先生がそれぞれ思うところを書くところね。

この所見を読んで、どう思われますか?

まあ、この先生、いい先生ですぜ。
文章読んでいても、なんとなくこの先生の人柄が出ている。やさしい感じもある。
ちゃんと肯定的に書いてくれているわけで、おそらく生活全般にわたり、この子に対する印象が、

「いろいろ細かいところまで丁寧にやってくれて、ありがたいな」

というものなんでしょう。この子に対してとても気持ちの良い、すがすがしさを感じているんだろうと思う。だから、まあ、この事例を一つだけ典型的な事例としてここに書いて、ですね、

この子は、いい子です!

という書き方をした(つもり)なのでしょう。




この担任の先生は、毛布の角を合わせてきちんと畳む姿から、心の成長を感じ取った。

ところがここに、もしかすると・・・

とても重大な思い違いが潜んでいる可能性がある!!


単純だけど、

心が成長した子は、毛布の角をきっちりと合わせて畳む(かもしれない)が、
毛布の角をきっちりと合わせて畳む子は、心が成長した子(とは限らない)

ということ。
つまり、内面は当の本人にしか分からないところがあるのに、さもそれを教師が

「言動を見て、分かりました!」

と言っているところに、思い違いがある。
内面を、言動で判断できる、ということが、思い違いというわけ。


同様に、

みんなのことを思って動こうとする子は、ほうきで隅まできちんと掃く(かもしれない)が、
ほうきで隅まできちんと掃くから、みんなのことを思って動いている(とは限らない)

さらに言えば、

心が健康な子は、毎朝元気に笑顔であいさつする(かもしれない)が、
毎朝元気に笑顔であいさつをすれば、心が健康だ(とは限らない)


逆に言うと、

心が荒れている子は、隣の子が牛乳こぼしても助けないかもしれないが、
隣の子のこぼした牛乳を拭かないから、心が荒れている、とは限らない。

心の栄養が不足している子は、校庭のマラソンをしないかもしれないが、
校庭のマラソンをしないから、心の栄養が不足しているとは限らない。








このことがハッキリするだけで、

通知表って、あんまり意味ない、ということが分かってきちゃう。




それから、子どもの一番大切な、内面、心の健康、満足、心の成長ってところが、

あんまり焦点当たってないような・・・



今の社会って、子どもの心の成長に、まともにスポットライト、当てようとしている?


あるいは、社会全体がそうでなくても、

少なくとも、自分の暮らしている子育てコミュニティでは、

子どものどこに、焦点を当てて、親同士で交流しているか?





こういうこと、こうした点についてだけでも、夏にバーベキューしながらでも、語り合える親同士のつながりが欲しい。

(いっしょにバーベキューやる人、募集します。あ、同釜の会もあるな)



清い水を守ろう!
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