困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

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えらい人、下々の者、という、「身分」を連想させる発想が、今の世の基準になっている。
明治維新の時代に、福沢諭吉さんが
「人の上に人をつくらず」
ということを言ったが、明治より約150年が経過するけれど、なかなか人は横列には並べず、つねに意識の底で、上下を意識する。


たとえば、買い物。

お店の人がかしこまって、

「ありがとうございます」

と言う。

客は、何も言わない。当然だ、と言うように、ふんぞりかえっている。




レジの人は、ていねいにもおへその前で両手を組んで、

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

ほとんどの客は、無言。


もちろん、気持ちの上では、

「売ってくれてありがたい」

と思っている人は多いと思うけど、


でも、多くの場合、雰囲気からして、どうなんだろ?

お店の人だけが「ありがとう」を言う ← この感じが、ふつうになっていると思う。



これ、同格、と思ってないからじゃないの・・・?


「こちらの方こそ、売って下さって、本当に助かりました。ありがとうございました。」


わざわざ、こう言っている人、あまり見かけない。



そういや、むかし大阪で野菜を売ってた時は、ナニワのおばちゃんたちはみんな、お金を出しながら、

「おおきに」

って、お店の人よりも(つまり私よりも)先に、言ってたなあ・・・。

もちろん売り手として、私もすかさず、「ありがとうございました」って言うんだけど、いつもお客さんに先を越されていた。



大阪は商人の町だから、

「売ってくれた、買ってくれた、の双方が同格」

という、当たり前の文化が息づいているのかもしれないね。




こういう話をすると、

いえいえ、何をおっしゃる、新間さん。

「みんな、お互いに同格だって思ってますよ」という人も、多い。

「今の平和な世の中、みんな同格じゃないですか。自由じゃないですか」、と。

その気になれば働ける、起業も自由、職業選択も自由、自由主義経済なんだから、

今の社会は、経済も含めて、「人はみな同格」でしょう? と言う。





あやしいぞ、と思ってまうね。

同格、と言いながら、相手の言うことを聞かない。

同格、と言いながら、上下感むきだしで、命令する。つっぱねる。否定する。

そして、周囲からよく思われるために、非難されないようにと用心する。

「あの人に何を言われるか」とびくびくする。

ぜんぜん同格じゃないってネ・・・。



自分がお客にどう思われるか、上司にどう思われるか、自分の評価ばかり考えている時は、同格、という世界には住んでいないってことだよね。

それに、人の悪口言う人は、まったく「人はみな同格」なんて思ってないぜ・・・ってことだしさ。




つまり、今の世の中は、

本当に心の底から自由な人の発想でできた社会でもないし、

本当に他人の視線にびくびくしない人の発想でできた社会でもない。

つまり、「同格」からの発想で、出来てはいない、ということ。経済の仕組みも、社会のルールも。



今、ふと思いついたけど、

これ、小学校で、

「じゃ、同格からの発想で、世の中をデザインしてみよう」

と、ソーシャルデザインさせる授業をしたら、どうなるんかいな。


考えてみたら、次の時代は、次の時代を生きる人たちが自由にデザインしていいわけだから、

文科省は本当は、
「新しい世代のソーシャルデザインワーク」


という授業を各校で推進するべきだよね。

じゃないと、いつまでたっても、天は人の上に人をつくらず、ということにはならないンだから・・・。


天は人の
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