困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者の自虐スナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

松本大洋の「竹光侍」

松本大洋について書くのは、ひさしぶりだ。



松本大洋は異端児を描く。

異端児は、世間の価値感とはまったくちがうものを、自身の中に持っている。
異端児は、世間への迎合を、諦めている。
そこには、ある種の悲しみと同時に明るさがある。
そして、世間を尊重しないのではなく、むしろ、尊重する。


松本大洋の描く『異端児』は、いわゆる「世間の奴ら」への関心の無さばかりでない、「世間並」になりきれなかった自分の、世の人へ対する屈折した卑屈な感情もあれば、「うわべで生きやがって」という蔑視、いろいろなものが一気にあふれでる感じで、まあ、もの凄い・・・と思う。


一方で、

異端児だからこそ、自由なのだ

という気ままなものも感じる。

世間に迎合しなくていい(必要が無い)という自由さ。

「竹光侍」は、最後までなかなか剣を抜かない。
だが、抜いたら、彼の刀はぺらっぺらの竹の刀だ。
敵は、剣をぬく直前の、死神のような目と、動物的な凄味、空気が凍りつくほどの殺気で、退散してしまう。
読者はその姿勢に圧倒されるとともに、自由さにあこがれて、喝さいを贈る。



世間を捨てる覚悟があるなら、「真剣を持てばイイのに」と読者は思うけど、それが彼の生き方なのだ。


「竹光」を持つことは、侍の矜持であると同時に、世間様へのいわゆる一つの処世、である。
世間様へ向けて、自分なりに態度を改めている、ということが、彼流の、

「世間」への顔向けの仕方

なのであり、完全なアウトローではない、ということなんだろう。

完全なアウトローでは、幸福にはなれない、ということを、知っているのだ。


彼の姿勢は、自分の自由さを失わないための、武装姿勢である。

その姿勢が、涼しいくらいに定まって動かず、一本筋が通っているから、

彼の心は、「自由」でいられるのだ。





小学校の教師は、この「自由」を、全員に保障することかと思う。



ある意味、クラスの全員が、異端児であるように。

異端児になれるように。



道徳教育の、根本は、


「道徳を超えられる道徳律を身につけられるように」


ということだと思う。



それと、すべての子どもが異端児になれるように、という教師の配慮は、同一のにおいがする。


異端児が許容されるクラス。

異端児であることを誇りに思う児童。

異端児だからと特別視のない雰囲気。

自分が異端児だからこそ、なのか?
「通常」や「ふつう」や「世間」を大事にしようとする、その思い。




「竹光侍」を読むと、文科省の配布する「道徳」本の中身が、ほとんど、ふっとんでしまう。

「道徳」なんて、人をしばろうとする勝手な言いぐさなんだし。

しかし、同時に、(これが逆説だけど)

「竹光侍」を読むと、「文科省道徳」を、悲しいけれど、大事に読もうか、という気になる。



今の時代、

人間が、素になれない、なりきれない。

しかし、心の底の、その奥底では、やはり、

素でありたいのだ・・・と、熱く、願っている人、ばかりだと思う。



異端児
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