ゲームばかりやってる。
コマばかりやってる。
けん玉ばかりやってる。
子どもは、大体、○○ばかり、やっていることが多いです。
ドッジボールばかりやっている時期もあれば、
あれだけ1学期は
「ドッジ、ドッジ!」
と言っていたのが嘘のように、
夏がすぎた2学期には、
「サッカー、サッカー!」
に変わっていたこともあります。
いつも、サッカーに出ていた子。
休み時間になると、ボールをもって駆け出すような子でしたが。
風邪をひいて、サッカーに行かない日が続いた。
ところが、熱で休んだその日を境に、その子の中で、
「サッカーばっかり」
という日々が終わってしまい、
「粘土大好き!」
に変わってしまう。
風邪っぴきでサッカーできないから、何気なしに手に取った粘土が楽しすぎて、そこに火が付くと、もう天気が雨だろうが晴れだろうが、体調がどうであろうが、ともかくも休み時間は粘土細工に熱をあげています。
それを見て、大人は大体、
「また!ねんどばっかりやってる!」
と思ってしまうネ・・・。
大体、いつも、子どもはなんか、そればっかりやっているように、見えるものです。
「この子、○○ばっかりやってんのよね」
と、言われながら、子どもは大きくなります。
親や先生は、たいてい、そのパターンです。
牛乳瓶のキャップを集めることが流行ると、どこかで、
「牛乳瓶のキャップ遊びは禁止」
ということになる。
理由は、教室や廊下のあちこちに、牛乳キャップが散乱したり、落っこちたりしているからです。
( ↑ というのは大人のずるがしこい理由でありまして・・・)
子どもは、牛乳キャップがおもしろくてたまらないのに、ケチをつけられてしまう。
ベーゴマばっかりやってると、ベーゴマにケチをつけられます。
サッカーばかりやっていると、サッカーにもケチをつけられる。
クワガタばかり集めてくると、
クワガタがかわいそうだから、「クワガタ禁止」
になりそうです。
大人からすると、子どもがいつも、「そればっかりやってる」ように見えてしまうので、なんだか、気味が悪くなるらしいのだ。
「うちの子、こればっかりやってるけど、なにかおかしいんじゃないのかしら・・・」
でも、それは小学生の間だけです。
中学生になると、こういったマニアの価値を認めてくれるようになる。
つまり、こういったことで苦労するのは、小学生までなのです。
(みんな、早く成長して、中学生になればいいよね。)
中学生で、バレーボール部に入部してバレーボールばかり触っていると、
「いいねえ、燃えてるね」
という高評価をもらえる。
一番いいのは、高校生が高校野球をやっていることです。
頑張っているし
努力しているし、
なにか克服しようとしているし、
健全で、マニアックで、汗が光っていて・・・
よい!すばらしい!
・・・というように、社会の中でマスコミによって位置づけられているから。
もし、朝日新聞社が主催して、
「夏の全国高校牛乳キャップ選手権大会」
を開催するようになれば、牛乳のキャップを集めている小学生に対する偏見も、もっと軽くなるでしょうけど・・・。
さて、そこでゲームのことですが、ゲームに燃えている子は、親に向かって、
「でも、ぼく、将来、モバゲーに就職するつもりなんだ・・・」
って、ぼそっと言ってみたらいいのではないかと思うね。
そうすると、思いもかけぬ、「就職」なんていう夢のあるキーワードが会話に登場したものだから、親としては混乱してしまうよ。そして、隙を突かれてお父さん、何を思ったか、
「お、おお、就職、就職かあ・・・。アハハ、そうか、そこまで考えていたかマー君・・・。モバゲーに就職するなら、ちょっとゲームの研究しておかなきゃな」
ということになるかもしれないし。
親としては、ゲームにうつつをぬかしているのが心配で、もっと、ちがった、高尚なことでマニアになってほしいとおもっている様子。
うちのクラスに、ロケットおたくがいて、JAXAの打ち上げる衛星とロケットについて、マニアックに語ることのできる子がいたが、お母さんは鼻高々であった。
「うちの子、将来、JAXAに就職したいって言うんですよ」
ホホホ、である。
牛乳のキャップを全国津々浦々から集めようとして燃えている子どもは非難されるが、ロケットの模型を集めている子は称賛される。
行為は似ているんだけど、マニアという意味でも同じなんだけど、内容がちがうと、こうまでちがうか社会の評価・・・、というわけであります。(子どもからしたら、それほど違いが無い)
ともあれ、子どもが、ある特定のなにか一つのことに集中しすぎることについて、親や先生が警戒するのは、なんでなんだろう。
興味のバランスは平均的なのが良い、という価値観があるからかな??
バランスの良さが、それほど重要かと言うと、どうなんだろうか。
本当に、そんなに、重要で価値のあることなんだろうか。
・・・と考えると、おそらく・・・。
意味ないと思う・・・。
決定しているのは、以下。
楽しくて幸せなのは、牛乳のキャップを見つめている子であり、ロケットを見つめている子だ、ということ。
この場合、幸福でないのは、どうみても親と先生でしょう。明らかに。
「○○ばっかりやってるのは、ダメ!!」
自分が不安だからって、自分を落ち着かせたいがために、子どもを縛ってほしくないネ・・・。
子どもの幸福に対して、そりゃあ、
大人の側の、勝手で余計で要らぬお世話、
というものでありましょう。
コマばかりやってる。
けん玉ばかりやってる。
子どもは、大体、○○ばかり、やっていることが多いです。
ドッジボールばかりやっている時期もあれば、
あれだけ1学期は
「ドッジ、ドッジ!」
と言っていたのが嘘のように、
夏がすぎた2学期には、
「サッカー、サッカー!」
に変わっていたこともあります。
いつも、サッカーに出ていた子。
休み時間になると、ボールをもって駆け出すような子でしたが。
風邪をひいて、サッカーに行かない日が続いた。
ところが、熱で休んだその日を境に、その子の中で、
「サッカーばっかり」
という日々が終わってしまい、
「粘土大好き!」
に変わってしまう。
風邪っぴきでサッカーできないから、何気なしに手に取った粘土が楽しすぎて、そこに火が付くと、もう天気が雨だろうが晴れだろうが、体調がどうであろうが、ともかくも休み時間は粘土細工に熱をあげています。
それを見て、大人は大体、
「また!ねんどばっかりやってる!」
と思ってしまうネ・・・。
大体、いつも、子どもはなんか、そればっかりやっているように、見えるものです。
「この子、○○ばっかりやってんのよね」
と、言われながら、子どもは大きくなります。
親や先生は、たいてい、そのパターンです。
牛乳瓶のキャップを集めることが流行ると、どこかで、
「牛乳瓶のキャップ遊びは禁止」
ということになる。
理由は、教室や廊下のあちこちに、牛乳キャップが散乱したり、落っこちたりしているからです。
( ↑ というのは大人のずるがしこい理由でありまして・・・)
子どもは、牛乳キャップがおもしろくてたまらないのに、ケチをつけられてしまう。
ベーゴマばっかりやってると、ベーゴマにケチをつけられます。
サッカーばかりやっていると、サッカーにもケチをつけられる。
クワガタばかり集めてくると、
クワガタがかわいそうだから、「クワガタ禁止」
になりそうです。
大人からすると、子どもがいつも、「そればっかりやってる」ように見えてしまうので、なんだか、気味が悪くなるらしいのだ。
「うちの子、こればっかりやってるけど、なにかおかしいんじゃないのかしら・・・」
でも、それは小学生の間だけです。
中学生になると、こういったマニアの価値を認めてくれるようになる。
つまり、こういったことで苦労するのは、小学生までなのです。
(みんな、早く成長して、中学生になればいいよね。)
中学生で、バレーボール部に入部してバレーボールばかり触っていると、
「いいねえ、燃えてるね」
という高評価をもらえる。
一番いいのは、高校生が高校野球をやっていることです。
頑張っているし
努力しているし、
なにか克服しようとしているし、
健全で、マニアックで、汗が光っていて・・・
よい!すばらしい!
・・・というように、社会の中でマスコミによって位置づけられているから。
もし、朝日新聞社が主催して、
「夏の全国高校牛乳キャップ選手権大会」
を開催するようになれば、牛乳のキャップを集めている小学生に対する偏見も、もっと軽くなるでしょうけど・・・。
さて、そこでゲームのことですが、ゲームに燃えている子は、親に向かって、
「でも、ぼく、将来、モバゲーに就職するつもりなんだ・・・」
って、ぼそっと言ってみたらいいのではないかと思うね。
そうすると、思いもかけぬ、「就職」なんていう夢のあるキーワードが会話に登場したものだから、親としては混乱してしまうよ。そして、隙を突かれてお父さん、何を思ったか、
「お、おお、就職、就職かあ・・・。アハハ、そうか、そこまで考えていたかマー君・・・。モバゲーに就職するなら、ちょっとゲームの研究しておかなきゃな」
ということになるかもしれないし。
親としては、ゲームにうつつをぬかしているのが心配で、もっと、ちがった、高尚なことでマニアになってほしいとおもっている様子。
うちのクラスに、ロケットおたくがいて、JAXAの打ち上げる衛星とロケットについて、マニアックに語ることのできる子がいたが、お母さんは鼻高々であった。
「うちの子、将来、JAXAに就職したいって言うんですよ」
ホホホ、である。
牛乳のキャップを全国津々浦々から集めようとして燃えている子どもは非難されるが、ロケットの模型を集めている子は称賛される。
行為は似ているんだけど、マニアという意味でも同じなんだけど、内容がちがうと、こうまでちがうか社会の評価・・・、というわけであります。(子どもからしたら、それほど違いが無い)
ともあれ、子どもが、ある特定のなにか一つのことに集中しすぎることについて、親や先生が警戒するのは、なんでなんだろう。
興味のバランスは平均的なのが良い、という価値観があるからかな??
バランスの良さが、それほど重要かと言うと、どうなんだろうか。
本当に、そんなに、重要で価値のあることなんだろうか。
・・・と考えると、おそらく・・・。
意味ないと思う・・・。
決定しているのは、以下。
楽しくて幸せなのは、牛乳のキャップを見つめている子であり、ロケットを見つめている子だ、ということ。
この場合、幸福でないのは、どうみても親と先生でしょう。明らかに。
「○○ばっかりやってるのは、ダメ!!」
自分が不安だからって、自分を落ち着かせたいがために、子どもを縛ってほしくないネ・・・。
子どもの幸福に対して、そりゃあ、
大人の側の、勝手で余計で要らぬお世話、
というものでありましょう。