モンスター、という言葉を世間で「認知されたもの」として使い始めて、もう何年ぐらいになるのだろう。

「わたし、鬼になりますよ」

というのでもいいと思うけど、日本語の『鬼』でなく、『モンスター』を使うのは、鬼がきっと、涙を流すからだろう。
鬼子母神は敬われているし、「鬼の目にも涙」ということわざが生きているのだから。
きっと、鬼は、誰の心にもいるんだろう。

鬼は、神の化身でもある。
よく、「鬼のような」と形容される「阿修羅」は、仏教の守護神だ。

ともあれ、

「わたし、モンスターになりますよ」

という親に、初めて出会って、いろいろと考えることがあった。
なりたくないが、成らざるを得ない。

それが、

「私、モンスターになりますよ」

という表現に隠されているメッセージだ。

ある状況を想起し、その状況に至った場合。
その場合には、わたしはなりたくはないけれども、成らざるを得ないですよ。
いやだけど、モンスターになってしまいますよ、ということ。


わたしは、モンスターになっても、子どものためにエネルギーを費やす、という覚悟で生きてます。
なりふりかまわず、子どもを守ろうというつもりで、生きています。
だから、イザ、というときは、モンスターになるよ。

こんなふうな、ぎりぎりの表現をしたくなるのには、ぜったいに訳があるわけで。。。

つまり、子どものことについて、親は親ならでは、自分ならではの考え、対応、しつけがある。
それが当然。
にもかかわらず、世間がそのことの自由を許していない、という背景がある。


子どもの子育てについては、親が好きに育てるのが当然である。


というふうに、なってる?
それとも、なってない?
今の世間は、どっちなの?


もしなっていないとしたら、それは、なぜ?
利権がらみ?

・正しい子育てがある。
・正しいしつけがある。
・親が好きなように育てるのはまずい。

どうしてそう思うのか?
あるいは、思わされているのか?


モンスターが当然。
鬼で、当然。



なんで、そうならない?

なんで、教師に、学校に、文科省に、遠慮する??




こういってきたのは、アレルギーで深く悩み、傷ついている親子。
卵を食べてはいけない、と生後8か月で医者に言われてから、ずっと食べさせていない。
顔が腫れて、たいへんな苦しい症状が出た。
その後から、ずっと、卵無しの生活を続けてきた。

さらにその一方で、アトピーがひどく、直射日光にも皮膚が過敏に反応するため、親子で外遊びを制限し、保育園にも熱心にコンタクトを取り、ともかくその子のためにとれる算段をすべてとり、子育てをしてきた。

母親として、できる限りのことをしてやらねば、という思いと、わたしはいい親である、という自負と、世の中は時として私たちの「生きやすさ」を邪魔するものだ、という思い。
複雑で、屈折した思いをお持ちだ。

入学式の後、

「もし、子どもにもしものことがあれば、わたしはモンスターになって、ぜったいに引き下がらないですよ」

ということをおっしゃった。

私は、

「当然です」

と言った。

「私も、おそらくそうします」



親と学校が対立項になるはずが、そもそも、ないよね。