宮台 真司「学級崩壊をめぐって」という文章がある。

ここに、

成熟社会では、「みんな仲良し」的な教育は、逆説的なことに、人を平気で差別し、危害を加える人間たちを量産します。


という文がある。

これはするどい、と思わず、うなってしまいました。

そうなのです。
こわいことに、

「仲良くしなさい(あるいは、するべきだ!)」

と主張する態度は、なんと逆説であることに、仲良くならない子どもたちを生み出してしまうのです!!

おそろしい・・・。


つまり、強圧的に、○○せよ!! と言われると、人間は、


ケッ!


と思ってしまうらしい、のです。



宮台先生は、そのことを、「犯罪性」とまで言います。
なんと刺激的な言葉を使って、人の心を揺さぶるのでしょうか。(そういう、<人心の揺さぶり>技術やスキルに長けていなければ、今の時代、社会学者として活躍することができなかったのかもしれないな、とふと思いました)

ともあれ、このことは、もしかすると今の学校について、一番、根本的な課題を突いているのではないか、と思う。


廊下を走るな!

と言われると、ケッ、と思う子どもたちの話を、以前書きました。

同様に、宮台先生のスタンスを借りれば、

姿勢が悪い!
姿勢をただせ!
気をつけ!

と言われると、ケッと思う子も、どうやらいそうです。
宮台先生は、そのことを、


「学校の準備体操では、整列!気を付け!前へ倣え!休め!とやります。これは準備体操にとって何の必要もありません。では何のため? 号令一下規律正しく集合的に行動する習慣を覚えるため。むろん軍事教練からの借り物です。今では周知のように体育実技の九割以上が軍事教練ルーツです。戦時下でもないのに、いったいなぜなのでしょう?」


とまで、言っています!!
ワオ!刺激的な文!!



つまり、気をつけ!、と大声と笛をピッ!!と鳴らしたりしながらやる先生が、同じニュアンスでもって、「仲良くしなさい!!」と言いながら、ピッ!と笛を咥えて鳴らしたりするのであれば、そんなことには、子どもたちはまったく関心を示さなくなる、ということです。

※上記、宮台真司先生、もし違っていたら、ご指摘ください。



そこで考えるのは、やはり、今の学校に必要なのは、「教育」の前に、「福祉」だということ。
「福祉」は、笛をピッと鳴らしたり、しないでしょうからね。
それに、「福祉」は、「仲良くしなさい!」とは言わないでしょうし。

「福祉」は、「仲良し」を強制しません。
ただ、目の前のその人の、必要性や要望を感じ取る、ということをまじめにやるだけです。
介護の世界にも通じますね。

お互いの都合を、しっかりと伝えあう、あるいは感じあう、という世界です。
まず先に、それがある。

次の、「相手がそれを把握したり了解したりしてくれるかどうか」は、別のステップです。
中には、まったく話が通じないように見える人もいるでしょうし。
さらに、「福祉」だと、そうした“親身に見えない態度”を責める気配はない。

木曜日、ケアハウスに床屋が来ないからといって、責めたりなじったりすることにエネルギーを費やすスタイルは、どうも「福祉」の世界にはなじまないのです。不思議ですが。
それが、「教育」の世界だと、木曜日に床屋が来ないのは道義的に許せないことになりやすい。
別の例では、カラオケの装置を老人ホームに用意したら、
「はい、Aさんから順番に一人一回ずつ、きちんと歌ってください」
とはならないのが「福祉」であり、順番に歌っていかないとまずい空気が流れるのが、「教育」だと考えることができそうです。

「なんでみんなといっしょになって歌おうとしないのだ!!みんな<なかよし>でやろうと学級目標で決めただろうっ!!」

という具合に、どうやら<なかよし>をしないと、叱られる空気がある。

<なかよし>をしないと、叱られる、というところがミソ。

「教育」の世界の<なかよし>は、しないと叱られる。
「教育」の世界の<なかよし>は、達成目標になりやすい。
「福祉」の世界の<なかよし>は、してもしなくてもよい。
<なかよし>することが目的や目標ではないからだ。

「教育」の世界の<なかよし>は、子どもがやらねばならん目標。
「福祉」の世界の<なかよし>は、ケアされる立場の利用者の目標には、けっしてならない。

そこがちがいますねえ。


やはり、学校は、「福祉」でやる、という具合に、変わりませんか。