子どもは、根本が、「はしりたい」生き物のようです。
その子どもに向かって、

「はしっちゃだめ」

というのですから、学校の廊下というのは、根本的にかなり子どもの実感や気持ちとは、ズレている(ことを要求される)場所なわけです。

学校側の理屈は以下。

・怪我をしたらどうする
・もしぶつけどころ、打ちどころが悪かったら
・学校中がさわがしくなる(わさわさする)

まあ、こんな理由でしょう。

そこで、全国どこの小学校でも、一応廊下は
「走りません」
というルールで徹底しているわけです。


ところが、子どもは走る。
低学年に、ルールなんてちっとも浸透しません。
目の前に広がる、長い廊下。
いい感じの角度で曲がって、ゴールは下駄箱だ!
まるで鈴鹿サーキットにでもいるかのように、F1レーサーのように、自分の体を全速力で走らせる!
この快感にしびれてしまった子たちを、どうにかしないといけない、というふうに多くの先生たちは思うわけですが。

なかには、毎日毎日、根競べ、という先生も。

「ようするに、子どもと根くらべよ。続けること。教師が負けない。」

すがすがしく、まるで行者が苦行僧のようです。
毎日、滝に打たれています、という感じ。
一種、尊敬の念を持ちますね。
言い方も、落ち着いたもの。

「ここは、○○小学校の廊下でーす。歩きましょうー」

お告げのように、静かなる「天からの声」を降らせて歩きます。
これは、「お告げ型」スタイル、というような感じ。

怒りの声をぶつけて、頭にきた!という雰囲気をまきちらしている、いわゆる「激怒型」タイプの指導スタイルをとる先生もいます。

要するに、教師の方にも、いろいろなタイプがあるのです。
(というよりも、言い方を変化させて試している)

他にもいろいろな指導の種類があって、
「これぇ。ここをどこだと心得る?」の江戸風松の廊下問答タイプ
「これ、この廊下が・・・、あ・、目にィ、入らぬ・かぁー」の印籠型水戸光圀公タイプ
「走ると怪我するぞ~、いいか、頭を3針縫った、お友達の話をしてあげようか・・・。まず、血がだらーんと出てなあ・・・(ゾクゾク)」の、怪談風恐怖の血ドバータイプ、・・・

・・・ま、どうでもいいか。



いつものように目をきらきらさせて走っている1年生に、上記のように注意した後、ふと思いついたのは、法律化。つまり、法的な効力のある文書に、明記してしまったらいいのでは。

「学校の教職員は、児童が廊下を走って怪我をした場合の責任については一切これを免れる」

つまり、走って怪我をしたら、その場合の治療費等は該当児童の全額自己負担。
子ども同士がお互いに謝罪をする。
先生の責任はいっさい、無いものとする。


21世紀になって、もう12年過ぎました。
2000年で、ミレニアムだのなんだの、と騒いでいたり、ベルリンの壁が崩壊して浮かれていたときには、

「これから、世の中が一気に変わっていくかもしれない」

などと夢想したこともありました。
夢にすぎませんでした。
もう、12年も経ってしまった。

でも、あいかわらず、小学校では、廊下を走ってはいけない、という枠組みを守っています。
そして、もし怪我をしたりトラブルが起きたりしたら、担任の先生が責任をとることになっています。担任の先生は、つい走ってしまうような生徒のことを、

「きみみたいに、廊下をアホのように走ってる生徒がいるとオレが困る」

と思ってしまって、

「こら!走るんじゃない!!」

と、毎日のように叱っているわけで

このようにして、

叱るのが日課。
叱ることが仕事。
叱ることでお給料をもらっているのだ、と誤解する先生が増えて、楽しいと思うのはいったい誰なんだ、と不思議なのですが、これをだれも不思議と思わないところが世の不思議なのでしょう。

(ともあれ、校長先生が「こりゃあ!廊下を走るなぁッ!!!」と激怒タイプの指導スタイルをとる場合、教職員全体に、この激怒型スタイルがじゃっかん、増える気がします。これ、確かなデータのような気がするのですが。どこかに統計や資料がないでしょうか。)