元エンジニア・新間先生の自問自答ブログ

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)


「先生~、つかれた~」

そうじのあとや、授業のあとや、なんだかんだと、いろいろな出来事があるたびに私に話しかけてくる子なのですが、ともかく、話しかけるたびに、

「せんせい~、疲れた~」

と言ってくるのです。
こういうとき、根掘り葉掘り聞き直すと、まるで尋問みたいになって、子どももキツイでしょうから、尋問はしません。
それでも、こちらの姿勢としては、彼の言動や顔の表情や所作に、アンテナを敏感に向けておきます。

「へえ、疲れたの。あらまあ」

くらいが、そのときのセリフです。
もしその後、

「先生、つかれた~。だから、宿題半分にして~」

という場合は、おそらく前半の「疲れた」というくだりはあまり重要でなく、ともかく宿題をやるエネルギーがない、やる気がない、つまり、やりたくない、という意思の表明でありましょう。

その言葉にしたがって、

「はい、宿題半分にしてあげるよ」

と教師が言ったら、たぶんその子は、むちゃくちゃ元気になりますね。
それで、

「うまくいった!!おれが、疲れた、と言ったら、先生、俺の言うことききよったわ!!」

と表情まで明るくなることでしょう。

そういうような、まちがった取引手段として、「疲れた」という言葉を使わせないために、そういう取引には応じません。
(でも、また別のロジックがあって、本当に体調まで影響のある場合は、もちろん宿題なんてやる必要ないですが、それはまた別の話です。)

そもそも、疲れた、ということに気付いている、メタ認知できている、ということはかなりすごい。そのことは、これからの人生にとって大変なプラスである。
まったく疲れを知らずに突っ走って、とつぜん倒れる、ということだってあろうから、休み休み、事業を推進していく、というのはこれからの人生をおくる上でも、大事な処し方です。

そう考えると、「疲れた」は、まったく厄介なことではなく、むしろ、

「ああ、そう。いいねえ。じゃ、少し休憩して、またチャレンジね。」

というだけでよい、ということになる。

むしろ、教師の側は、あっさりしている方がいい。
そして、信頼して、待っている姿勢くらいでちょうどいい。
そのうちに、疲れた、といわなくなるかも。


しかし、また一つ、別の視点がある。
それは、本当に疲れた、という状況である。
なにかを、子ども心に、訴えたい、というとき。
ストレートに言えずに、なにかをオブラートに包んで、「疲れた」とだけ言っている、ということがある。

1学期に「疲れた」を頻発していた子は、父親が野球のコーチ。本人もがんばって土日はかかさず家族で野球三昧、という一家の子です。しかし、あまりにもそれがキツいらしく、本音を言えばちょっと休みたかったのかもしれません。夏休み中、大事な試合の前に、熱を出して、結局、その試合には出られなかったそうです。

夏休み。
静かな学校に、たまーに、忘れ物をとりにきたり、宿題のプリントがない、というので取りに来る子がいます。
その子も、夏休みに忘れ物、というので学校へ来て、ちょこっとその話をしてくれたのですが、

「ぼく、試合はでれんかった。熱がでたで」

という子の顔が、なんとも複雑で、こちらも気分が複雑になりました。

あとでその話を電話でしてくださった母親が、ちゃんと分かっていて、

「ちょっとやらせすぎたかもしれないです。ちょっと休憩も要りますね」

と言ってらしたので、ああ、そういう視点がきちんともてるお母様で、助かったな、と思いました。




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