今週のお題「私のふるさと」

夏休みなので、ジイジとバアバの家へ行ってまいります。
息子も、すでにそのためのスタンバイ状態。
何をして遊ぶか、など、着実に計画をしておる。
(といってもジイジの家のゲームが楽しみ、というだけ)

ところで、自分の両親に迷惑をかけなかった子はいないと思うが、兄弟のうちで一番心配をかけたのが自分だと思う。
姉に聞くと、
「私が一番だという気もするが、やっぱりあんたかもね」
と言っている。

親に心配をかけてはいけない、というニュアンスは、常識観念に照らして、とても世の中に強く流布していると思う。
しかし、逆に、親にこそ心配をかけるべき、というニュアンスも同時にまたあって、それもまあ、常識のようである。

親は、子どもに心配を<かけられる>のが、一番の幸せであろう。
「子どもの心配ができない親」は、さびしいもの。
「子どもを心配できる幸福」が、親にはある。


家庭訪問でも、個人面談でも、お家での様子はいかかですか、と尋ねると、

「うちの子は、本当に手がかからなくて」

という親は、一瞬、常識的に笑顔で話す。

しかしその後、ちょっと、さびしい顔にもどる。
心の内では、それがいかにさみしいことなのか、ちゃんと感じとっておられるのだろうな、と見ていて思うのだ。


とくに進路については、親の意見などまったく役に立たぬ。
うちの子を見ていても、この子を「落語家」にしたい、という夢はあるが、それでも心のどこかで、

「勝手に好きな道に行くのだろうな」

とあきらめている。
だから、
「落語家になってほしい!」
と<言う>ことはできても、強要はできまい。
親の自由は、希望を伝える、ということだけ。
あとはジャンジャンと、柳家小三冶とか、春風亭柳昇とか、CDを聞かせることくらいかな・・・。
寝しなの物語りに、日本の昔話を志ん生風に語るとか、そんな姑息な「すりこみ」が、親としてのせめてもの取り組みで、それ以上の押し付けはできまい。
なんてったって、自分はまったく親の意見など聞かなかったのだから。

その、まったく意見を聞かない私に向かって、ジイジとバアバは

「まったく、親の意見を聞かんもんだで・・・。墓石の前で親の意見を聞きたくても、もう遅いでね」

と名古屋弁で言っていた。おそらく同じセリフを私もまた、くりかえし、自分の息子に言うことになるだろう。

で、それを言いながら、

「ああ、自分の親も、同じことを俺に言っておったわい」と感慨深く、遠くの空を見てみるような気がする。

そして、自分のやりたいようにやってきた半生を振り返り、そのことの幸福と、親がそれでも自分を捨てなかった、という幸福を、二重にかみしめることになるのだろう。

お盆に帰省することになる多くの家庭で、なにかしら、そういう親と子と孫の、微妙な<出会い>があるのだと思うと、ちょっと日本中がふしぎな空気に包まれるような気がする。