近所の保護者と話した際に驚いたこと。

その保護者は、5年生の親です。
5年生は近所の田んぼで、田植えをするのですが、そのときの様子を見ていたとのこと。
わが子が、学校からわざわざ近所まで出かけてきて、クラスの他の子たちといっしょに、田植えをする。

「お父さん、今日、下原の信号の近くの田んぼで、田植えだよ」
「おお、そうか」
「お父さん、見に来る?」
「家の近くだから、行こうかな」

ま、そんな展開だったようです。


「先生、いろいろ娘の作業の様子を見ていたんだけど、近頃の小学生たち、みんなよう働くよねえ」

「そうですか」

「見てたら、先生が一人で、大声はりあげて、もっとこっちー、やれぇ~っ!ってがんばってたけど、学校は時間が無いから、急いでるってことだろうねえ」

先生が、やたらと大急ぎで大声をあげてはりきっていたそうで。
はりきっていた、というのは良い書き方で、実際のところは、給食の時間に遅れまいとして、いわゆる大人の事情から、懸命に子どもたちを鼓舞していた、ということだろう。

「給食の時間とかがあって・・・」

それを言うと、

そんなに急がせる必要があるのだったら、手弁当で来れなかったのかねえ、というのが、お父さんの、ほんのちょっぴりとした感想なのです。


さらに、先生は仕事に夢中で、苗を形通りに植えるのに躍起になっていて、子どもの植えた列がゆがんでいると、大急ぎでやりなおさせたりと、獅子奮迅に声を嗄らして、怒鳴り続けていたそうで・・・。


「先生っちゅうんは、本当にご苦労さまなことだねえ」


これは、善意で言ってくれているように聞こえているのですが、実際のところは、ちがいますね。ここに気づけるようでなくてはいけません。


「もっと子どもを大事にしてよ」

という、大人目線での、希望・提案、なのでしょう。


そんな気がしたので、私は当事者ではないですが、同じ教師稼業を営む者として、思わず

「すみません」

と謝ってしまいました。


さらに、お父さんの的確なこと。

「しかし見ているとね、子どもの中には、別にやれ、とたのまれたわけでもないだろうに、金づちでトントンやる子がおるね。(実は、アイガモを飼育するので、小屋をつくったらしい)おもしろいのは、金づちを手にする子がいると、自然ととなりで、釘を渡してあげる子が出るのね。

ほいでね、しばらく打っていたと思ったら、○○くん、まだやれていないでしょう、と言って、先生が指示したわけでもないのに、まだやっていない班の子に、金づちを釘を渡して、ゆずっているんだ。子どもどうしってのは、見ていないのかと思ったら、しっかりと友達のことを見ているんやね。そして、きちんと気付いて、ゆずりあったり、お互いがそれでいいのかって、見合っている。ほいで、先生はどうしてこういうことに関わっていないのかと思って見ていると、やっぱりずっと、田んぼの真ん中で大声はりあげているんだ。なにやってんだ、と思ったよ」


教師が進めていくのは事柄ではないだろう、ということだと思います。
事柄でなく、子どもたち同士のつながり意識、<見えない部分>が見えてきているのだから、そこを励まし、GOOD!と言ってあげることだろう、と。

わたしはそのお父さんの視点が担任にあれば、いいクラスになるのだろうなあ、と思いながら聞いておりました。

そのお父さんは、近所で民宿を営んでいらっしゃる方です。
ふだんから、さまざまに人のお世話をしている方なので、なぜとなく、人と人との関わりを見出す視点が、定まっておられるのだろう、と思いました。