NHKで、今、「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」という番組を連続シリーズでやっている。
それを見ていると、人と人とが、組織や肩書や立場や派閥、人事、そうしたものにからみとられて、本当に心の欲するように行動しているわけではないんだな、というのがよくわかる。
また、そのことが不思議にも思えてくる。
もう、21世紀なのに。

まだ、そうした、本当の自由さを感じることができないでいる。

NHKがアンケートをとった。
「まわりの人や組織が自分の意見とは反対のことを進めようとしているときに、自由に自分の意見を言うことができますか」

というようなもの。

で、49%を超える人が、「言えない」と答えた。

これは、自由そうで、自由でない、今の多くの人の心のありようを示している。

さて、わたしはカミングアウトすると、20代は非常に「みょうちきりん」な体験をしていて、実は、山の中で修業をしていた。
こんなふうに書くと、信じてもらえないが、これが本当のことだから、笑える。

今からふりかえると私自身も、

「なんで自分の人生はこんなことになっちゃったのか」

と不思議に感じるくらい。

で、その修業の間、ずっとあることを考えていた。
それが、

「なぜ腹が立つのか」

であります。
ことあるごとに、それが修業のテーマになっていて、考えざるを得ない。

5,6年くらいの間は、

「腹が立つのはよくないこと」

というような考えにしばられていたから、純粋に

「なんで腹が立つのか」

と考えることはできなかった。
医者だとか、教師だとか、牧師さんだとか、仏教界の僧侶の方とか、会社員とか主婦とか、その時々によって、一人でなく大勢の人といっしょに考えることがあったが、たいていの人は、

怒りとは何か


という分析にはじまり、分析に終わる。

それではらちがあかないな、と思いだしたのが、8年目くらい。
ちょうど、27,28歳くらいか。

インドで修業した人の本ばかり読んでいる、50代の大人の人(有名紡績企業の重役らしい)がいて、怒りを一生懸命に解読しようとしていたが、会うたびに、

「釈迦はこう言った」

みたいなことばかり話しかけてくる。

そんなこと勉強しようと思っているわけでないから、まあ聞いてあげられるときは聞いていたが、心の中では、

「そんなこと詰めていっても、自分の心のからくりが見えないと、たんなる道徳やスローガンにしかならないでないの」

と不思議に思っていた。
当時の私はあまりにも純粋で、人生も50年も生きれば、そうとうの真理にたどりつくだろうと思っていたところがあり、有名企業の重役である白髪の60歳近いおじさんが、ご自分が解読したところである釈迦の解説をするのを聞くと、

「なにか意味があるかも」

と思っていた。

でも、やはりその人も、何も見えないままにあがいていたのかな、と今では思う。

その人のセリフで今でも覚えているのは

「慈悲を生きる」
「怒りを完全に克服する」

というようなことで、それを守っていくことがどうやら人間として生きるマナーのようなものらしい。そういうことを言って、いかにも悟ったような顔をしている。

怒りを克服する、というのが分からない。
そんなこと、できるわけがない、と思えてならなかった。

今でもそう思う。
そのへんがひっかかり、

「克服せよ」なんて大上段にかまえているけど、それが仏道だとしたら、仏道なんて意味ないな・・・


と思っていた。

克服、という言葉の意味が分からない人は救われないじゃないか。
そんなの、インキチだな。

そう思った。

(つづく・・・ちょっと引いてますか?)