8年目のある日、ひょっとしたときに、ふと思いついた。
怒りの思いが出てくるとき、いやな気持ち(感情)になるな。
なんでだろう。
怒りの思いが出てくるとき、すてきな気分(感情)にはならない。
なんでだろう。
相手に対して、怒っているとき、つまらないような、いやな、なんとかしたい、早く気分を変えたいような、つまるところ、「いやな」気分が湧いてくる。
怒りの思いを、自分がもし肯定するならば、怒る時に心の中にすてきな気分が湧いてきたっていいはずだ。
なのに、怒るとき、やはり自分の中に、「いやな」気分が蔓延する。
あ、なるほど、と思った。
はっ、とした。
あれあれ?
どういうことだ?
人間に生まれて、怒る時に、すばらしい気分が湧きおこってきて、また怒りたい、という欲求が湧いてくる人なんているのだろうか。
あっ、人間は、怒りを肯定しないようになっているのか。
(ここ、なんですけど、どうでしょうかね。ここらを語っている人って、いるんでしょうか。いたらおしえてください!)
いや、まてよ。
怒りのときに、きちんと教えてくれている「いやな」気分は、愛の作用だな。
怒りがマイナス感情であるのは、怒りそのものが、愛の作用の発露であるからだな。
ということは、怒りもすべて、愛、ということか。
なんだ、結局、克服すべきものでもない。
怒りは、愛の作用か。
ぜんぶひっくるめて、宇宙自然界に、愛の作用の及んでいないものが無いということ。(怒りですら・・・この怒りですら、愛が真であることの証明になっていた、ということが、わたしには衝撃だったのですが・・・)
すべて、そうかぁー・・・。
これが、これまでにも何度か書いた、28歳で気づいたシンプルなたった一つの原則、ということ。
困ったことなんてないな。困っているのは、溶けていないからだ。それを自然界が教えてくれている。
すべて、愛に包まれているではないの。
これが、28歳の時。
2,3日、このことがいつになっても頭から離れない。
衝撃過ぎて、だれにも語れない。
友達に、熱を入れて何度かしゃべったが、
「そうかー、なるほど」
程度で、わたしが感じているような衝撃を受けてくれない。
これは意外であった。
なんで?すごいことじゃん・・・。
おれがヘンなのかなぁ。
その後、さらに細かく分析すると、
自分の心の中で、人や物、出来事に対して、否定NOの意思が出る。
相手と一つに溶け合えないものを感じると、その意思そのものに、理(ことわり)が作用する。
理が作用し、溶けあえない、ということに対して、いやな気持ち、感情を出す。(自然界からのサインか)
その後・・・
いやな気持ち、感情が、否定の意思と混在して混線・混乱しつつ、「怒り」として表出される。(こういうパターンが多いかな。表出しないで済む人もいるが)
○○という対象がいやなのではなくて、
自分が溶けあえない事自体がいやなのだ。
それがどうにもできないから、混乱する。
そして、混乱が、怒りとして、表出される。
「そんなの、ふざけんな!」
これで、決闘が始まるという寸法。
でも、そうは通常、思っているひとはいない。
わたしは正しく、相手が間違っている。
正義はつらぬくもの。
それが世の常識だ。
こんなことをブログに書くと、よほど妙な変人だと思われるし、案外危険なことだ。
誤解される。
正義は世にあふれているのに、その「正義」の根底を、足元をすくうような発言だととらえる人もいるだろうし。
気の早い人は、
「キリスト教と同じか。右のほおをぶたれたら、左ほおを出せ、というんだろう」
というかもしれない。
近いけど(近くもないか・・・)、もはや手あかにまみれたこのフレーズを今更持ち出しても、解釈が百万通りはあるから、話が進まない。大体、なにかに対応するための「方法」とかいうことではないのだ。左ほおを出すのは勝手・自由だが、別に出す必要もない。右のほおをぶたれたら、ぶたれた、というだけのこと。
なに?じゃあ、敵に一方的に攻められたら、指をくわえて待ってるのか!自分の子どもが殺されても文句はないってか!
と言われたこともある。
大体、この話をすると、20代か30代の男性がこういう反応をするが、まあゆっくり考えてよ、と言うことにしている。別に、ところかまわず、ぶちきれてもいいんだし・・・。なにがよくて、なにがわるい、という話ではない。
自分で考えないと、意味が無い。
私の意見を聞いたところで、何にも面白くもなんともないでしょう、と。自分の意見をぜひ、聞かせてほしい、と言う。
それでも私の考えを聞かせてほしい、という人もいたが、わたしの考えは深くもなんともなく、ただ、「なんで腹が立つのか」をつめているだけ。
それをやっているだけで、現在は
この世は愛ばっかり。愛で100%、と考えられるようになった。
怒りは正しい!
という姿勢もある。
そうした姿勢も否定できない。
怒りそのものも、愛の発露だから。
怒りながら怒りながら、水のように、器に添っていく。
怒って、その怒りの愛をくりかえし反芻しながら、相手と溶けていく。
正義の御旗をふりかざし、怒りを叫びながら、その意味するところの愛を感じて嬉し涙にくれながら、一つになろうとしていく。
こういう行き方が、そのうちに流行しだすのではないだろうか。
あるいはもうあるのかな。知らんけど。
なりたくないのに、なってしまう気持ちや感情、というものがあることに気づく。
これかな。
コメント一覧 (4)
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- 2011年08月17日 19:19
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東京の臨時教員さん、コメントありがとうございます。<br>そうでした。二学期が目前でした。わたしもそろそろエンジンをかけなきゃと思いました。またさぐっていきましょう。私も夏休みにまたちがった角度で自分をさぐることが少しはできたような気がして(書くことで)、二学期にクラスの子供たちの前に立つための情熱を、涵養したいと思いました。お互いに、前へ進んでまいりましょう!
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- 2011年08月17日 08:42
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早速のお返事ありがとうございます。<br>こういうことについての考えを人に話すのって勇気がいりますが、機会があれば、親しい人に話してみたいと思っています。<br>それと同時に、目の前の二学期のことを考えねばなりません。25日から二学期です。こうしてみると時間がない。<br>本当の心の安全、安心の境地は、、、ありそうですが、自分には辿り着ける自信がないです。ある、という方のお話を伺ってみたいです。
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- 2011年08月16日 22:22
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東京の臨時教員さん、コメントありがとうございます。<br>こんな妙な文章、読んでくださる方がいて、コメントまで下さって、ただただ恐縮です。感謝です。<br><br>怒り、に目を向けていらっしゃるのですね。<br>とても本質的なことだと思います。<br>本質から離れて人生を送っていると、ときおり針路修正が迫られるのはよくあることです。心は嘘を見通してしまいますからね。自分に対してのウソも、他の人に対してのウソも。やはり人間の心はバランスをとろうとするものです。<br>たまには本質をとことん考えるのも必要なことでしょうね。<br><br>パーソナリティ障害について触れられていますね。いろいろとご苦労をされてきたのかと推測します。<br><br>怒りを発しているときのことを考えてみると、やはりなにかこの、自分の身を守ろうとする心の動きが根底にあるように思います。<br>何か強く自分を守ろうとする、そうしないと、自分が負かされちゃう、侵されてしまう、というような不安・・・<br><br>おそらく自分を守ろうというのがなくなると、怒りや争いはなくなるのでしょうが、そんなに簡単じゃない。どうしても、どうしても、なにか強い他の力で自分が侵されるかのように思ってしまうのって・・・。なんでそう思ってしまうのでしょうね。<br><br>心の安定、安心、本当の本当に安心する境地って、あるのでしょうかね。あるという人と、ない、という人と・・・。
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- 2011年08月16日 20:17
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いつも拝見し、教採、その他の記事、興味深く読み、参考にさせていただいてます。私は、今、30目前の段階で、戦争や争いがなぜ起こるか、自分なりの答えを出していたところでした。もっぱら、修行したわけでもなく、身内がパーソナリティ障害と診断されたことがきっかけです。身内である彼女は、子供のころ、さみしくてたまらなかった、ただ、それをうまく表現できずに、満たされないまま、我慢してきた。それが徐々に溜まり、怒りとなり、拒否反応を起こすようになった、とわかりました。<br>keiさんの書かれている、怒りは愛の発露、というところまでは思考がたどり着いていませんが、なんとなーく、仰ることの30パーセント位、わかった気がします(笑)<br>私は、怖れから怒りが生まれると考えていました。自分が認められないことへの怖れ、愛する人を失うことへの怖れ、等々。。。<br>怒りを客観視することの意義をいま、とても感じています。怒りがなぜ起こるか、怒りの根本にある思いとは何なのか。怒りに支配されず、コントロールできれば、、、と思います。<br>長々とすみません。
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