授業の目的が、昨年とくらべてかなりちがってきている。

昨年は、子どもに学力をつけることが教師の仕事だ、と思っていた。
今年は、「力をつける」よりも、もっと上位にあたる目的を設定した。


昨年までの、「力をつける」は、2番目になった。
「クラス中の子どもたちをつなげる」
これが1番目。最上位にあたる目的意識。

人間関係の力をつける、生きる力をつける、という意味で本当の力をつけてやりたい。
そういう意味では、
「ちから」
の意味合いが変わってきた、といえるかもしれない。


子どもたちが、自分の所属する学級に安心感をもっていなければ、本当の本当に、学力をつけてやりたいと願っていても、それが「できない」。
クラスの子どもたちが、お互いの人間関係に満足していなければ、安心できる空間にはならないのだ。


これは、昨年度担任したクラスで、発達障害の児童を複数指導した経験があってこそ。

教師であれば、子どもたちに力をつけてやりたい、と思う。
しかし、発達障害の子らには、それがなかなかむずかしいのだ。
根本には、その子たちが、安心できる学級環境がなければならない。
そうでなければ、学力がつけられない。


昨年。
学級にいられずに、特別支援学級へ行こうとした子がいる。
通常学級では、安心していることができなかった。
自分から、声をかけて、人間関係をつくることができない子だった。

こうした状況をふまえ、チームをつくった。
校長をはじめ、多くの方に助言をいただき、特別支援へと方向を定め、医療関係も含めて動き始めた。

ところが、そう簡単にはいかなかった。
その子が通おうとした先の特別支援学級にさえも、人間関係の不信感から通えなかったのだ。
彼女は、支援級の男の子たちと、どうにも折り合いが付けられない。
「あの男の子たちがいるんなら、わたしはいけない」
学校に、居場所がなくなりかけていた。



次なる手を打つ。

学級でもなく、特別支援学級でもないところ・・・。
どこか、彼女の居場所になるようなところはないか・・・。

保健室か。
しかし、彼女は低学年のころに保健室ともうまくいかなくなっていた。
保健室の先生に、親以上にべったりとくっついていく。

アスペルガーの特徴で、保健室の先生が他の児童にとっても大切な存在であることが理解できていない様子。
いつも自分のそばにいて、話しかけていてほしい、と要求する。それに応じられないというと、保健室で棚のモノをひっくり返したり、ベッドでとびはねたりと、大人の注目を得るためのあらゆる行動をとっていた。
保健室の先生が、すでにこの女の子とはつきあえないほど、疲れ切っていた。
これは、学校が破たんするか、該当児童が不登校になるかの、瀬戸際だ。


そこで、奥の手を思いついた。
相談室、である。
相談室だって本来はそういう場所ではない。だからこれは、不登校にさせないための、緊急的、応急的な措置、ということだった。


相談室の先生にお願いをして、相談室でほとんどの時間をすごすようにした。
給食も、そうじも、もちろん学級の時間も・・・。
授業時間は、プリントをやって、すごした。
あたらしいことは教えられない。
昨年までの復習がほとんどだ。
それでも、通常学級よりはマシだ、と本人が言っていた。
通常学級の授業についていくための、前年度の学力が、ついていなかったからだ。


結局、1年間、そうしてすごした。
担任は、毎週木曜日の学年会を、3つ、掛け持ちした。

1)通常の学年会。主任や他クラスの先生と、学年の指導方針を打ち合わせ。
2)支援級の先生と、次週の動きを打ち合わせ。
3)相談室の先生と、個別の対応を打ち合わせ。

これを1年間続けるのは、相当なエネルギーが必要だ。



結局、基盤にあるのは、通常学級の子どもたちの力だ、と考えるようになった。
子どもたちの力が、発達障害の子らを包みこめるように、育っていなければならない。
認め合い、助け合い、力を発揮しよう、という子どもたちに育っていなければ、発達障害の子らを包みこんで、安心できるクラスを支えていくことができない。


以上のことから、今年は変わらざるをえなかった。
大きく、授業の目的が変わった。

とにもかくにも、学力なんかよりも、もっと大事なもの。
クラスの友達を意識して、行動できるかどうか。
相手の身になって行動できるかどうか。
助け合おうとしているかどうか。
それを評価するために、授業を仕組む。
教師の意識が、そこに集中する。

「学力」の中には、もちろんこうした広い意味の「人間関係をつくる力」も含まれると思います。
そういう意味では、「学力をつける」を本当にやっていくことが、授業の目的と言えるかと思います。