諸説ある。

人数は変わらないがそうと診断する姿勢の関係者が増えてきた結果、増えたように見えるのだという説。
もう一つは、前頭葉のあり様が変化したことに関連し、実際に増えたという説。

最初の説を信じている。
わたしが小学生のころにも、今から考えると明らかに発達障害だろうと思われる児童がいた。
周囲の子とは大きく違って、大きな音に極端に敏感だったこと。
周囲にみんなが集まって話していると、

いきなり自分の両耳を、両掌でふせぐ。
そして、こきざみに動かしつつ、音が遮断されていることを確かめるように、自分の口で、
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ・・・」
と連続して声を出していた。

そして、しばらくたつとおさまる。
不安が高まると、同じことを日に何度も繰り返した。
お母さんは、半分鬱のようになり、友達ともほとんど遊ばせていなかったと思う。
いえに遊びに行ったこともあるが(当時はそれが常識であった)、
複数の友達がいくとだめであった。

彼は、国鉄の東海道線の駅をすべて暗記していることでも有名であった。


自分にも多少その傾向があったかも、と考えている。


ただし、彼は、もちろん「発達障害」だとか「自閉症スペクトラム」という診断は知らない。
周囲の人も、彼の個性は把握したが、それを医療とむすびつけて考えたことはないだろうと思う。
こうした子が、当時からもいたのだ。
40人学級のクラスに、おそらく1割から2割、いたのでないだろうか。
4,5人はいたと思う。

ふりかえると、私自身も通知票の所見欄に

「落ち着きがありません」

と書かれていたし、先の見通しが立たないと非常に不安になっていたことを思い出す。
私自身も、その4,5人の中に含まれる存在であったかもしれない。



こういうふうに考えてきたが、
最近読んだ本の著者の方は、ちがった。
実際に、ここ十数年で、実際に増えてきている、というのだ。

脳からわかる発達障害―子どもたちの「生きづらさ」を理解するために

をお書きになった、鳥居先生。

鳥居先生は、前頭葉の働きがこの十数年でちがってきた、という。
たしかに、社会の暮らし、リズム、そういったものがまったくちがってきた。
そのため、考える、という要素が極端に減ってきたというのは、おそらく正しいだろう。
お風呂を沸かす、ということだって、先の見通しがなければならなかった。水をためるのも、お湯を沸かすのも、時間を見て、考えて、見通しを立てて行動しなければうまくいかない。
お正月だって、商店は正月は休みになるのが通例だったから、親は年末年始の食材の量を的確に、(来客の分まで予測しておいて)用意しておかなければならなかった。

また、原因は何かわからないが、脳そのものが、この十数年でかなり質的に変容してきているのではないか、という実感をお持ちだそうだ。

子どもの脳が変わってきた??

それはちょっと、わからない。
しかし、自分の実感からしても、なんだかそんな気もしてくる。

実際、わたしが昨年受け持ったクラス、24名の中で、WISCを受けた子は5人いる。
2割ちょっと、だ。

2割、というのは、大きいと思う。
教師が心療内科、発達障害外来のある病院に通うのも、わりとふつうのことになっている。
こうした診断ができる先生は少ないので、お医者様にお目にかかるたびに
担当の先生から、

「あ、また○○先生ですね。今日はだれちゃんのでしたっけ。あ、そうそう。□□くんでしたね。先日は△△ちゃんでしたけど、お母様とあのあと電話で少し話できましたよ。」

というように、白衣を着た担当医と、クラスの複数の子のことで話をするのがままあった。(もちろん当日の相談者である保護者がまだ到着しないまでの待ち時間で)


教室の中の、2割の子。
これは大きい。
6人いたら、1人はかならず、だ。


こうした子を無視して、教室経営などけっしてできないから、結局打開策として、

ユニバーサルデザイン

というものに注目せざるを得ない。
かような状況になってきているのが、今の教室、今の学校なのだろう。

では、どの子にもやさしい、ユニバーサルデザインとは何か。
次回。