テンプルグランディンさんの話題、前回の続き。

さて、グランディンさんは、牧場の設計をされている。
その中で、牧場の牛たちが非常に落ち着かないのでなんでか調べてみたがなかなか分からない。

グランディンさんが行ってみて、牛舎に入って、牛と同じ視線で、牛の立場で考えていると、ひらひらする影が、地面にうつっている。これを恐れているのでは、とひらめいた。

(グランディンさんは、牧場の設計をする仕事をしている。
USAとカナダの牧場の約半数が、グランディンさんの設計だ。
屠場と一体化している牧場の多いUSAやカナダでは、牧場の設計という仕事が非常に重要になってくる。年間何万頭という牛が処分されるので、牛が屠場まで気分良く歩いてくれないとお話にならない。せまい通路に牛が固まって止まってしまったら、それこそ阿鼻叫喚である。時間が経ってしまい、夜になってライトに照らされながら人間が必死になって牛を追う羽目になる。屠場のスケジュールが成り立っていかないのである)


さて、グランディンさんが赴いた牛舎。グランディンさんがひらひらと地面の上で揺れている、旗の影に気がついた。これをなんとかしないかぎり、牛が落ち着いて餌を食べてくれない。

そこで、隣の敷地に立つ病院の、庭先にあるポール、そこになびいていた病院の旗をおろしてみると、牛がそれで安心して歩き始めた、というのだ。




これを聞いて、自分も同じような体験をしたことを思い出し、なんだか急に、グランディンさんが身近な人のような気分になった。

わたしが20代の最初に牛を飼っていたとき、牛がどうしても進まない。
昼飯の時間が近いので、なんとか動いてもらいたいが、ダメ。

出産の棟で出産をして、さあていよいよ、搾乳が始まる子。搾乳の施設まで、移動しなければならない。ところが、催乳の牛舎棟まで、どうしても動いてくれない。最初はゆるゆると調子よく歩いてくれたのに、途中まできたら、そこからぴたりと動かなくなった。
牛の目を見ると、ぎらぎらして、なにかにおびえている。
だが、何がこわいんだか、ちっともわからなかった。

今から思うと本当に牛飼いとしては初歩的なことだったのだが、目の前に、細い雨水路があり、そこはアルミ格子のふたがかぶせてあったので、それを越えて歩くのがイヤだったのだ。

当時の私は、まだ牛を飼い始めたばかりのしろうと。大きな図体の牛なら、歩幅よりもうんと小さい幅で、軽々とこえていけるもの。もりあがっているわけでなく、地面と同じ高さなのだし、見た目は色が金属のアルミ色をしているものの、まったく怖いものではない。

・・・と思っていた。

グランディンさんなら、当時の私にこう言うだろう。

「それは、あなたが概念でモノを見過ぎているのです。あなたが見ているアルミ格子は、「うんと軽く、せまく、ちいさく、牛が気にならないもの」としか認識できていないでしょう。でも、もっとしっかりと見てください。こんなにも、色がちがうのです。アルミの色は、牛をつなぐスタンチョンが床に固定されている部分のくさりの色と同じです。たぶんこの牛は、そのくさりにイヤな思い出があるのでしょう。あるいは、そのアルミの格子をふんだときに、すべった記憶があるのかもしれません。」



グランディンさんは、専門家の目でみる。
くわしく、細部を見る。
こういうことは、あらゆる仕事をする上での、本当に大切な部分だと思う。
逆に、そういう「細部への視点」がなければ、プロにはなれない。

多くの人は、プロになるために、大人になってから、あるいは修業中の身の上として、全体だけでなく、細部を見る練習をする、のだと思う。

しかし、アスペルガーの人は、最初から細部をみることに長けている。だから、逆に、大人になっていく過程で、「全体も」見られるようになる、訓練をする必要があるのだろう。

全体をみるのは、むずかしい。ことの軽重、バランス、全体の混ざり具合、というポイントが出てくるからだ。これらは、アスペルガーの人にはむずかしい。
特に、人間関係のバランスがむずかしい。
人間同士の付き合いの上では、<仲の良いふり>、というのもあるんだ、というのが分からない。親友とまあまあ親友、ふつうの友達、あいさつ程度、面識程度、というレベルを区別して理解することが非常に困難なのだ。