水俣の公害について。

学習するのは、5年生の後半。

子どもたちに、当時の混乱(現在までつづく)と、決してくりかえしてはならない、という学習の根幹を学ばせるために、これまで写真の力にたよってきた。

わたし自身も、美術館や展覧会で目にしてきた、アイリーンさんの写真がまっさきに思い浮かぶ。
「入浴する智子と母」(Tomoko in Her Bath, 1971)
である。


ところが、この写真を子どもたちに見せて学習させようと思っていたのだが、
思わぬことを学年主任の先生にうかがった。
それは、
清里フォトアートミュージアム友の会・会報11号(2000年11月10日発行)に掲載された、
「入浴する智子と母」に関する写真使用をめぐって……
──アイリーン・美緒子・スミス氏インタビュー──の内容のことである。

この写真の被写体になっている上村智子さんを、休ませてあげたい、というご家族の思いがあるのだ。

これを知り、授業に使うのはどうかと考える日が続いた。

写真集はあるし、これを読むこと自体は問題のあることではない。
また、子どもたちの目にも、どうしても触れる。
積極的に資料として使うことが、果たしてご家族の思いと、ずれを生じていることはないか。


昨年、5年生の子どもたちと学習を進めた折には、パワーポイントの資料の最後に、この写真をもってきて、
「授業の感想を書きなさい」
とした。
子どもたちは、ノートにそれぞれの感想を書いて終わる。

智子さんのことを、水俣学習のひとつの山場と考えていた。

今年は、どうするか。


先の資料を読んでいると、なかにこんなくだりがあった。

例えば、既に出版されている教科書に掲載されたあの写真を子供が見た時に、もう出版されることはないのだと知ったら、あの写真は違うパワーを持つと思います。わざとそうしているわけではないのですが、ただ、簡単には見られないのだから大事に見ようとか、なんでもう見られないのかな、と考えるきっかけになると思います。(引用)


これだ、と思った。

そして、今年の授業は、同じように写真を見せたが、それで終わらず、

「この写真は、まだ完成していないのです」

と語り、子どもたちの不思議そうな顔に、

「この写真自身は完成品じゃないのです。この写真がパワーを持つならば、それを見たあなたの心に残ったものがパワーになる、パワーを作るのはあなたで、だから写真を見ることは受け身じゃない。見た人の数だけ、無数のパワーが生まれてくる。」

と付け加えた。