音楽会にて。


会が終わってから、体育館の出口が込み合っていた。
順番待ちをしている人の列ができ、待っている人たちがここかしこで、立ち話を始めていたとき。

ふと、隣り合った祖父母の方が、こんな話をされた。

「子どもっていいわねえ。本当。ずっと、あの子たちを見ていたい気持ちになった」

目を細めて、感動をそのまま伝えてくれた。
ありがたかった。

教師をやっていると、子どもを見る目のほとんどが、評価基準になっている。
よいか、わるいか。
うまいか、へたか。

音楽会で、低学年の子たちが、なにやら舞台の上で叫んだり、大声で歌ったり、小道具を動かしたり、いろいろなことをやっている。
ほとんどの保護者が、その様子に目をほそめて、笑いながらうれしそうに見ている。
そこに、評価はほとんど介在しない。

それが、高学年になってくると、親も教師も、似たような見方になってくる。
去年よりも上手か。
他のクラスよりも、工夫があったか。
盛り上がったか。歌声は・・・。表現力は・・・。

そういう見方がほとんどではないだろうか。


しかし、以前は保育士であった、というその祖父母の方は、帰り際に何度も何度も、
「なにをやってもかわいいのね。あの子たちは。歌っていてもいいし、歩いててもいいし、とにかく見せれくれるだけでいい。あなたたちの姿を、ずっと見ててもいい?って、聞きたいくらい」

とおっしゃる。
そういう意味のことを、何度も繰り返し、おっしゃるのだった。

元保育士で、勤めていた最後には、園長もされていたそうだ。
そういう方だからこそ、か。


しかし、私自身も、あとから思うと、そういう気持ちになんだかなってきたことを思い出した。
それは、自分が担任するクラスの発表のあとだ。

クラスの子どもたちが、歌った。
私は指揮台に立つ。
すると、指揮台というのは、歌っている子どもたちが本当によく見える。
どの子も、みんなまっすぐを見て、私を真剣なまなざしで見て、歌ってくれている。

子どもたちの歌声が、私の全身に響くのだ。
私は、どの観客よりも先に、子どもたちの声を聞き、だれよりも大きく、その声を聞くことになる。
わたしは指揮をしながら、感動する。
そして、子どもたちのエネルギーがまっすぐに私を包んでくる、その喜びを何度も味わった。

その後、他の学年や学級が発表をしていた。
終わった安堵感からか、私もくつろいだ気持ちで他の発表を聞いていた。

そこで、先の祖父母の方と、似たような感覚になったのである。

うまい、へた、上手、というような価値観から、解放されたような気分。
評価のものさしを手に持って、聴いている状態ではなかった。

ただ、ひたすら、子どもたちがエネルギーとともに動きまわる、歌っている、その姿がいとおしいような気持ちになった。

孫を見るじじばばの目と言うのは、こういうものかもしれないな、と思う。
なにをしていたって、いい。
なにをするかは、問題ではない。
ただ、そこにいてくれるだけで、満足。その姿を見ていられることが、幸福。
そんな立場だろうか。


学校と言う、忙しいスケジュールの空間の中で、
つかの間の一瞬、
「評価」を忘れさせてもらった。
子どもたちの本来の姿、生きている元の姿があらわれてくるのが、音楽会。
歌う子どもたちのエネルギーによって、本来のものに気付かされた。
そういう姿が、「評価」抜きに、見えるようになった。
くもりがとれ、見える目になったといおうか。

やはり、指揮台にたって、子どもたちのいのちに触れたことが大きい。
そのことで、わたしの心が、なんだか呼び覚まされたのだ。本来のものへと。


「そのままでいい、そのままがいい」

という言葉があった。

教師になってしばらく、忘れていた。
でも、本来は、そういうことだろう。

すべてOK、という評価の上に、上手だとか下手だとか、工夫があるとかないだとか、取り組んだとか取り組まないとか、真剣味があるとか足りないとか・・・、そういうものがあるといえばあるのだろう。


別れ際、祖父母の方は、自分は保育士として小さな子どもたちに関わってきたが、やはりいい仕事だったと思う、と言ってくれた。
わたしが転職組だと知って、言ってくれたのだと思う。

「これから、という命にかかわる仕事だもの。こんなにいい仕事はないのよ。いっぱい笑ったしね」

こちらは、ありがとうございました、と何度も頭を下げるしかなかった。

最後、こちらをしっかりと見て、深々と頭を下げて、子どもたちのくつばこの出口から、出て行かれた。
共に見送った学年主任の先生も、なんだかすがすがしい顔をしていた。



遠くから、給食の食器を動かすような音が聞こえる。
窓の外に、体育館の扉が見え、楽器を片づける6年生の姿が見えた。