夏休みに調子を崩し、一向に学校へこれていない子がいる。

「わたしをわすれないでほしい。」

というメッセージが、友人を通じてあった。

特別支援教室の子で、ほとんど私の学級へは来たことがない。
原級の担任として、面談してきてほしい、という教頭の配慮で、私が行くことになった。


父親と話し合いができた。

特別支援教室なのに、担任にこう言われたのが悲しかった、とのこと。

「特別な配慮はできません。」



特別支援教室の担任の言わんとするところも分かる。
もちろん、特別支援だ。
その子一人ひとりの個別の状況や発達の程度、障害の度合い、いろいろなことには対応したい。そのつもりの支援教室だ。

しかし、それにしても、支援教室の限界がある。
たとえば、その子一人のために、カリキュラムをすべて個別仕様にすることはできない。
他にも、支援教室に来る子はいるのだ。
防音にするために配慮はするが、支援教室をさらに増やすことはできないし、他の校舎にずらすこともできない。
給食の時間も多少はずらせるが、その子一人のために1時間もずらすことはできない。
担任もクラスの他の級友もひっくるめて、1時間も動かすことはできない。

そういう意味で、特別な配慮はできない、と言ったのだ。

しかし、親はそうは受け取らない。
特別な配慮をしてこそ、特別支援のはずなのに。
その対応をなぜ学校はしてくれないのか。


学校は、スタッフ不足でいっぱい、いっぱいだ。

特別な配慮を要する子は、あまりにもたくさんいる。
その子、その親から、特別な配慮を次々と要求されても、そのすべてに対応することはできない。


その父親は、そうした事情も分かる、と言った。

「だから、学校には期待していません。医者と相談していますので」


医療機関からは、学校へ連絡があった。
「登校刺激のむずかしいケースです」

両親の学校への不信感が強い。
子どもも、学校へ期待していない。
よほど強い学校とのつながりが、心のつながりがないと、復帰しようとする動機が生まれないだろう、とのこと。

最後に、聞いてみた。

学校へ登校して、いちばん困ることってなにか。

本人いわく、

「学校はうるさい。低学年の子の声がすごく耳に入ってくる。叫ぶ声は本当にうるさい。先生の怒鳴る声もうるさい。学校にいると、頭が痛くなる。」

もちろん、教室は離れている。
特別支援教室は、他の教室よりは、ある程度、静かな・・・・はずだ。
しかし、廊下をトンネルのように伝わってくる音が、本人を苦しませている。


こうしてみると、オープン教室の学校が、いかに特別支援教育の配慮を欠いた施設かというのがよくわかる。

これから、オープン教室はなくなっていくだろうが、一時の流行のはかなさと罪深さを、だれが償うのだろう。

職員が、知恵を出して乗り切る、というしかないのだ。
しかしその、背負った荷物の、なんと重いことだろう。
現場の教師はやせた馬のようだ。
やせ馬に、荷が勝ちすぎるのだ。



父親の静かに語る隣に座り、テーブルにひじをついて話を聞きながら、小学6年生の彼女も、ぼんやりと湯呑を見つめている。

「この家は静かですねえ」

父親は、この子のために、増築をし、防音になっている、と言った。
親ならでは、である。

頭が下がる。


うるさくない教室へ。
子どもの騒がない学校へ。
(それは無理だ・・・)



この後、どんな対応ができるのだろう。

悩み続ける。