爆問学問、NHKの人気番組である。
漫才コンビの爆笑問題の二人が、毎回、さまざまな分野の第一人者と語り合う。

太田光が<落語>をどう見ているのか、知りたくて見た。

「千両みかん」について。
みかん一袋に100両の値打ちがあるわけがないのにもかかわらず、その計算に目がくらんで逃走する番頭の姿。これを話題にし、太田光いわく、金は「虚」である、と。
これはまったく同意見で、うなずいてみていたら、隣で嫁さんが

「何年か前に、あなたもそういうことを言っていた」

というので、そうだったっけ?というと、

「千両みかんの話をしながら、金が虚だということを落語がそのまま表している、と言っていた」

という。
驚いた。
我ながら、ちゃんと気付いていたのだ。
そもそも自分は、金が虚、である、ということを追いかけ続けた20代を過ごしていたから、そのあたりはかなり敏感になっていたのかも。
千両みかんを聞いて、太田さんと同じように感じていた人も多いはず。
私もその一人。

江戸学の田中教授が、

「粗忽長屋って、すごい話ですよ」

と言っていた。
最初は、? と思っていたが、この番組の最後の方で、


「落語は、解釈しない。良い悪いを判断しない。人間をそのまま描いている、ここに人がいますよ、というだけ」

と田中教授が言っていたのを聞いて、ああそうか、と合点がいった。

うっかりもの=バカ者=あわてもの=へんな人、と現代人はさまざまに言い方を変えながら、最終的には、「変」という「マイナス」の言葉で烙印をおし、イメージづくりをしてしまう。つまり、価値を定めてしまう。
しかし、落語(あるいはその背景にあった江戸の町民の文化、行き様)では、そこつもの、と呼ぶ。そして、そこつ、という言い方には、それを許容する響きがあった、というのだ。

そこつもの、という言葉には、「変、へんな人」という言い方にはないあたたかみがある。


あと面白かったのは、太田光が立川談志師匠が言っていた言葉を紹介して

「業の肯定」ごうのこうてい

というのを言っていたので、そうか、と一旦は思ったがそのあとで、

肯定も否定もなく、それから離れて、ただ表した、というだけでないかという気がした。

ただ、今の世の中は業を否定することが社会の常識、表の論理となっているから、だから否定をしない落語表現はそのまま「肯定」をしているかのように見えてしまうのか、と思ってあながち立川談志師匠の言い方でも間違いではないと考えた。


太田光の時事ネタ漫才は、落語の世界に似ているなと思う。
落語もまあいってみれば、「人間そのものがおもしろい」と言っているわけで、
爆笑問題がなぜ時事ネタを中心にするかというと、人間の巻き起こす本当の事件そのものが面白いから、人間の存在、行為そのものが、笑えることばかりだから、というが、そのことと落語の精神性は、底で繋がっている気がする。

子どもが生(なま)で生きている教室という空間は、かなり落語的だと思う。
やっていることは、本当に笑えることばかりだ。