年賀状が意識にあるのかもしれない。
子どもが、

「先生、住所を教えてください」

と言ってきた。

まじめな子である。
いたずらするような子ではない。
おそらく、母親にでも、相談したのか、アドバイスを受けたのかもしれない。

子どもがこう言ってくるのには、背景がある。
昨年来、担任の連絡先、住所はすべての書類から消えている。
個人情報を公開しないようになっている。

本当は3年ほど前からそうなっていたのだが、前校長の判断で、
学級担任がのぞめば、(よしとすれば)、学級の緊急連絡網に、担任の家の連絡先、電話番号、もしくは住所を載せていたのである。

わたしは昨年から個人情報の公開を辞めた。
昨年の学年主任が、そう判断したので従った。
また、私自身もそうした方がいい、と思ったのだ。
家には幼児もいる。深夜に電話がかかってきてはたまらない。
そう思った。

それで、冒頭のような出来事が起こったのだ。
つまり、先生に年賀状を出したくても、そもそも住所が分からない。
直に聞けばよい、と思ったのだろう。

わたしは、即答した。
どう答えたか。


「ごめんね。先生の住所は教えられません。年賀状は学校宛てに出してくださいね」

本当はもっといろいろと話したが、要するに、上記のようなことである。
その子は納得したので、それで済んだ。
「じゃあ、学校に送るね」
と言ってくれた。




ただ、なんとなしに、4年前くらいか、自宅にたくさん届いた子どもたちからのユニークな年賀状のいろいろを思い出すと、さみしさを感じないこともない。
自宅で朝、玄米茶かなにかを飲みながら、家族と

「おお、この子のこの絵は、おもしろいなあ」
「この子はね、家族で旅行に行くと言っていたから。写真に写っているの、いい顔だなあ」

などと語らいつつ、子どもたちの年賀状を読む幸福に包まれる。

これが、もはや、味わえないのだ。
仕方がないとはいえ、ちょっとさみしい。
しかし、だからといって住所を教えることが良いわけでもない。
毎年、こういうことは考えていくことになるのかもしれない。